上流社会象徴 ロシア・ボリショイ劇場 帝政期の装飾排除、スターリン「存続」

2020年2月3日 16時00分

豪華な内装で知られるモスクワのボリショイ劇場

 ロシアのバレエ、オペラの殿堂として知られる、モスクワの国立ボリショイ劇場。舞台のドラマばかりに目が行きがちで、建物に刻まれた文化抑圧の歴史に気付く人は少ない。そもそも1世紀前のロシア革命の後、上流社会の象徴とされた劇場がなぜ壊されずに済んだのか。 (モスクワ・小柳悠志、写真も)
 一九一七年のロシア革命までツァーリ(皇帝)が出入りした「皇帝の間」。壁に掛かった深紅の織物を見ると、皇帝ニコライ二世の紋章の部分だけ色が薄い。革命後、この部分が破られ、近年修復する際も往時の色合いが再現できなかったという。
 革命政権樹立とともに国章「双頭のワシ」など帝政の象徴物は各地で取り除かれた。ソ連建国の父レーニンはボリショイ劇場自体が旧体制の象徴で、維持にもカネが掛かるとして、解体するとぶち上げた。
 革命家の間で、かんかんがくがくの論争が湧き起こった。
 「ボリショイを人民に残せ」と声を上げたのが文化教育行政トップのルナチャルスキー。芸術に通じたインテリだから黙っていられない。貴族社会が生んだ歌劇場を守るため、逆に労働者の権利を持ち出した。
 「ボリショイを閉鎖すれば、そこで働く千五百人が真冬の路上に放り出され、妻子もろとも飢え死にします…」
 ルナチャルスキーは二二年一月、「泣き落とし」の手紙をつづるが、受け取ったレーニンも譲らない。だが十二月、レーニンの健康状態が悪くなったのを見計らい、後継者となるスターリンがボリショイ存続を決めた。ロシアの通信社によると、こうした書簡や演説原稿が残されているという。
 「レーニンは文化の破壊者。一方のスターリンはボリショイのような舞台の存続は、国家にとって利点があると理解していた」。社会文書館のマリーナ・アスタホワ副館長はスターリンの決断をこう分析する。
 ロシア帝国で辺境とされたジョージア(グルジア)生まれのスターリン。彼にとって芸術はプロパガンダの道具だったとみなされてきたが、近年ではスターリンの歌劇に対する純粋な情熱も明らかになりつつある。
 ボリショイは「ハコ」はそのまま、帝政期の装飾を落として人民の劇場として再出発した。スターリンは政敵や芸術家への弾圧を続ける間も舞台脇のボックス席に足しげく通った。皇帝が座った舞台正面の目立つ席を避けたのは暗殺を防ぐためだったとされる。
<ボリショイ劇場> 1776年設立。現在の建物は1856年に完成し、優れた音響と豪華な内装が有名。ボリショイは「大きい」の意味。故プリセツカヤら世界的なバレリーナ、オペラ歌手らが舞台に立った。2011年、6年に及ぶ修復工事を終えた。

帝政の紋章の部分だけ色が薄くなっている壁掛けの織物

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