世界の広さが見えた 第2部の盲人卓球優勝・竹内昌彦さん

2019年10月3日 02時00分

1967年3月18日、点字ブロックの渡り初めをする岡山盲学校の生徒ら=岡山市で(安全交通試験研究センター提供)

 1964年11月に開催された東京パラリンピックには第2部があった。車いすの選手による第1部の国際大会に続いて国内大会として開かれ、肢体不自由や視覚、聴覚障害の選手と西ドイツから特別参加した選手を含む約480人が陸上や水泳、卓球などで競った。故郷の岡山から2競技に出場した竹内昌彦さん(74)にとって、大会での経験が後に世界へと活動の場を広げる礎となった。 (神谷円香)

「点字ブロック発祥の地」の石碑を紹介する竹内昌彦さん=岡山市で

 <立ち幅跳びと盲人卓球(現サウンドテーブルテニス)に出場した>
 盲学校の高等部専攻科1年、19歳の時です。学校の卓球部では初代部長でした。パラリンピックは4~5人だったかな、リーグ戦で全勝して優勝した。卓球よりも自信があった立ち幅跳びは、調子が良いと2メートル95跳べていた。でも本番では力が出せず、2メートル39で22人中16位。本当は水泳でも出たかったんだけど、学校で2種目までと言われたので断念しました。岡山駅を夜行列車で出発する時、父が「竹内昌彦、万歳!」と叫んでくれた。
 <選手村では、第1部に参加していた海外選手や、全国各地から集まった日本選手にも会った>
 選手村で、初めて洋式トイレを使いました。別天地でしたよ。他の障害の人にも初めて会いました。車いすの人の方が、動くのは大変そうだなと思いましたね。目は見えなくても慣れればどこへでも動けるので。食事は無料、バスも乗り降り自由で、映画館もあり、夢のような世界でしたね。東京は修学旅行以来2回目でした。滞在最終日に明治神宮へ遊びに行ったら、七五三でにぎわってましたね。
 <生後間もなく引き揚げ船に乗り、栄養失調の中で肺炎にかかり視覚障害に>
 45年生まれは全盲が多いんですよ。少し下の世代は弱視が多い。終戦直後は物もなく、ちゃんと医療も受けられなかった。中国・天津から岡山に引き揚げて、物心ついた時には右目は見えず、左目は弱視。それが普通と思っていた。東京パラリンピックに出て、一生のうちにあんな経験はないというのをさせてもらった。世間は広い、目の見えんくらいでぶつぶつ言うてたらいけん、と思いました。社会のことなどはその後学びましたが、大会への参加で世界が広がりました。
 <岡山県は点字ブロック発祥の地。石碑を建てる活動もした>
 点字ブロックが岡山で誕生したのは、帰郷して盲学校に勤めて初めて知りました。それまで真っすぐ歩けなかった通勤の道が、歩きやすくなり大違いでした。広まらないころは当事者として、敷設をお願いする活動もしました。石碑建立は何年も温めていた夢で、友人たちの協力で実行できました。
 <母校の岡山盲学校に長年勤め、退職後はNPO法人「ヒカリカナタ基金」を立ち上げた。発展途上国の子どもの目の治療を資金面で支援している>
 元々途上国に盲学校を建てる活動をしていたんです。モンゴルの少女に会った時「この子の目は治る」と医師に言われた。途上国の子どもは白内障などいろんな病気で、感染症も多いんですが、お金があれば治る子も多いと初めて気付きました。2017年にNPO法人となり、医療支援をしている団体と協力して、これまでキルギスやネパール、モンゴル、ミャンマーで計125人の目を治しました。
 <重度の脳性まひがあった長男を6歳で亡くしている>
 子どもを亡くすまでは、自分のことだけを求めていた。でもお金への執着もなくなった。自分の幸せより、人のためになることをしようと。長男が命懸けで教えてくれた。「死ななんだら、必ず良いことは来る」と、講演でも話しています。東京パラリンピックに出たのと長男のことは自分の人生の大きなこと。パラリンピックは、選手がどれだけの障害を乗り越えてきたかを見せる。これこそスポーツの精神です。

東京パラリンピック第2部の盲人卓球で金メダルを獲得した時の竹内昌彦さん=本人提供

◆点字ブロック 岡山発祥 発信

 岡山県は点字ブロックが誕生し、世界で初めて敷設された地だ。岡山市の発明家三宅精一さん(故人)が、視覚障害者の自立を支援する社会福祉法人日本ライトハウスの岩橋英行理事長(当時)と出会ったのがきっかけ。三宅さんは当事者の意見を聞いて形状や配列を試行錯誤し、1965(昭和40)年、自宅に「安全交通試験研究センター」を設立。67年3月18日、岡山市の県立岡山盲学校の通学路の横断歩道に点字ブロック230枚が敷かれた。
 普及には時間がかかった。高度成長期の日本は障害者を支える設備に目を向ける意識が低く、センターの運営も苦難が続いた。だが、70年に旧国鉄が大阪府内の駅に敷設し、東京都も高田馬場駅周辺に敷設を決めると、少しずつ広まった。2001年には日本工業規格(JIS)が定められた。
 竹内さんは点字ブロックが岡山発祥であることを発信しようと、石碑建立の実行委員長に就任。10年の「点字ブロックの日」の3月18日、初の点字ブロックが敷設された交差点の近くに建立された。竹内さんは「点字ブロックに物を置かないで」と呼び掛ける活動も続けている。
 安全交通試験研究センターは一般財団法人として存続し、三宅さんの弟、三郎さんが理事長を務める。
<たけうち・まさひこ> 1945年2月17日、中国・天津生まれ。終戦後間もなくかかった肺炎がもとで右目の視力を失い、小学5年で左目も失明した。岡山県立岡山盲学校高等部専攻科、東京教育大教育学部特設教員養成部(現・筑波大理療科教員養成施設)卒業。同盲学校の教員となり教頭まで務めた。NPO法人ヒカリカナタ基金理事長、社会福祉法人岡山ライトハウス理事長。2012年に自伝「見えないから見えたもの」を自費出版した。

関連キーワード

PR情報

1964年からの手紙の新着

記事一覧