パラ出場人生の転機 6種目に参加・近藤秀夫さん

2019年8月25日 02時00分

バリアフリー設計の自宅で、当時を懐かしむ近藤秀夫さん=高知県安芸市で

 1964年11月、東京五輪後に5日間の日程で開かれた東京パラリンピックには、日本から53選手が参加した。アーチェリーや車いすバスケットボールなど6種目に出場した近藤秀夫さん(84)は、競技と日常生活の両面で、海外との差を目の当たりにした。身寄りがなく、施設で一生を終えるだけだと思っていた人生を、大きく変える契機となった。 (兼村優希)
 <10歳で終戦を迎え、12歳の時、炭鉱技師だった父親の死などで一家が離散。一人で生きるしかなかった>
 路上生活で、悪いこともしたよ。14歳の頃、忍び込んだ汽車で、隣のおじさんが朝ごはんを食べるのをじっと見ていたら、「食べるか」とくれた。福岡で炭坑で石炭を運ぶ運送屋をしている人だった。わら小屋に住ませてもらい、そこで働きだした。16歳の時、炭坑のトロッコ用のレールを馬車に積むのを手伝っていた。大きくて片方を持ち上げるのに16人くらいの人手がいる。前の晩は雨で、足元がぬかるんでいた。それで滑ったんじゃないかな。誰かが肩からレールを外し、危ないと思った他の人も一斉に離した。レールの重みを僕一人が受けちゃったわけ。胸の下からVの字に折れたのが分かった。
 <頸椎(けいつい)を痛め、下半身まひで車いす生活に>
 目が覚めて驚いた。わらじゃなく、白いシーツの中で寝ていたから。しかも、三度のご飯が食べられる。体の自由と引き換えに、衣食住がいっぺんにそろった。「しめた」と思った。退院後は、別府の国立重度障害者センターで一生を過ごすつもりだった。ちょうど生活保護法が施行された時分で、お金の心配は何もいらない。当時はリハビリなんてないけれど、行き場のない元気な障害者が集まって、車いすで野球もしていたね。
 <施設で8年ほど過ごしたころ、国立別府病院の中村裕医師が来訪。のちに「日本パラリンピックの父」と呼ばれ、東京五輪と併せて障害者の国際大会を誘致しようと奔走していた>
 中村先生には、床ずれができたら手術してもらっていて、知らない関係ではなかった。みんなを集めて「俺が大会を持ってくるから、おまえたちは競技をやってくれ。頼むぞ」というわけ。僕たちのような脊髄損傷者は、スポーツを通して社会復帰できるんだと。いざ東京パラリンピックが実現しても、県大会の大きいやつだろうくらいのイメージしか描けなかったけどね。しかも外国との対戦なんて。
 <ルールもよく分からないまま、本番を迎えた>
 体調不良の選手と交代していたら、結局6種目も出ちゃった。アーチェリーは和弓のことだと思っていたからね。竹を曲げて弦を付けただけの弓と、竹の矢を持って行った。しかも稽古用。選手村の練習場に行ったら、皆見たこともない弓でやってるじゃない。他の選手が恥ずかしいと思ったのか僕の和弓を隠して、当日は立派なアーチェリーが準備された。見よう見まねで撃ったけど、そもそも和弓で稽古したのは15メートル。アーチェリーは70メートルだから、撃った矢がどこへ飛んで行ったかも分からない(笑)。
 <車いすバスケも惨敗した>
 アメリカには6-60で大敗。体格も力も桁違いだった。あまりにも日本が弱いから、ゴールまでの道をあけて花道までつくってくれたよ。まだ普通の車いすが多かったけど、海外では(現在主流の)ハの字にタイヤがついた車いすを使う人もいた。仲間と「あれは技術が低いから、ハの字になる。日本は技術が高いから、(地面に)垂直に付けられるんだ」なんて話していた。ただね、垂直同士でぶつかると、タイヤに指を挟まれる。危ないから前もって両手を離すと、ぶつかった衝撃で体が飛んじゃうわけ。そんなふうに車いすから落ちるのは日本人だけだった。
 <選手村は、五輪後に突貫工事でバリアフリー仕様に改修された。日本の障害者には「理想郷」に見えた>
 大会のために東京へ移動した際、羽田空港で飛行機から抱え降ろされると、車いすのまま乗れるリフトバスが待っていた。高速道路をパトカーの先導で走り、選手村へ。どこにでもスロープがあり、自由に動ける。まさに夢見た空間だね。夜はカフェテリアで生バンドの演奏があり、外国人は当たり前のように抱き合ってキスをする。でも僕たちはそんな感覚がないし、とても一人では行けない。
 同じ障害がありながら、なぜこんなに違うのか。この思いが、その後も障害者の暮らしやすい街づくりに関わる原点になった。
 <この50年余、障害者スポーツの在り方も大きく変わった>
 僕らの頃とは次元が違う。障害はハンディではなく、個性だね。義足や道具も進化し、今や走り幅跳びなどは、元気な人以上に距離を伸ばしている。ハンディどころじゃなくなっているところに面白みを感じる。今度のパラリンピック、僕もせっかくだから聖火ランナーはやりたいなあ。
<こんどう・ひでお> 1935年3月28日生まれの84歳。岡山県出身。64年東京パラリンピック出場。大会後も、車いすバスケを続け、車いすマラソンにも参加した。74年、東京都町田市の職員に。2011年に移住先の高知県安芸市で障害者の自立支援をするNPO法人「土佐の太平洋高気圧」を立ち上げ、副理事長を務める。

◆障害者 社会進出の契機 大会後、バリアフリー訴え

東京パラリンピックの車いすバスケットボールで、試合後に米国選手と手のひらの大きさを比べる近藤秀夫さん(中央)=東京・代々木の国立屋内総合競技場別館付属仮設バスケットボールコートで(近藤さん提供)

 1964年の東京パラリンピックは、当時は人目に触れることの少なかった日本の障害者の社会進出を促す契機になった。それは、近藤さんの歩みと重なる。
 国際パラリンピック委員会(IPC)によると、21カ国から378人が出場。当時は車いすの種目だけ。競技の結果よりも、スポーツのリハビリ効果などに重きが置かれた。近藤さんが「競技とは違う場面で私の中に残っている」と話すのは、海外選手の多くが職業を持ち、健常者と変わらぬ生き生きとした姿。日本選手は53人のうち、仕事に就いていたのは5人だけだったという。ほとんどが病院などから直行して大会に出場していて、違いは歴然だった。
 施設で一生を終えるつもりだった近藤さんの人生は一変した。外資系企業に雇ってもらい、同社の車いすバスケチームで2年間活動した後、67年に立ち上げたクラブチームで自治体から体育館を借りる渉外を担当。床に傷がつくのを恐れて難色を示されたり、スロープがなかったりで、「障害者の人権が守られていない」と訴えた。
 74年には、福祉の街づくりを進めていた東京都町田市で、当時は日本初と言われた「車いすの公務員」になり、バリアフリー環境の整備や車いす用トイレの設計などにも携わった。「障害者にはできないと言われることは、環境が原因であることが非常に多い。東京パラをきっかけに、社会に意見を出せるようになった」と振り返る。

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