政治と言葉

2020年5月4日 02時00分
 政治は言葉でつくられる。新型コロナウイルスの脅威に直面している今、政治家の言葉は、さらに重みを増す。歴史を振り返れば、後世に残る政治家の名言もある。近ごろの政治家はどうだろう。彼らが発する言葉は、国民の心に響いているだろうか。
 <政治家の名言> 米国で南北戦争が行われていたさなかの1863年、リンカーン大統領はゲティスバーグ演説で「人民の、人民による、人民のための政治」と述べた。民主主義の本質を表す言葉として、日本国憲法前文にも反映された。1985年、西ドイツ(当時)連邦議会では、ワイツゼッカー大統領が戦後40年演説で「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」と述べ、歴史に向き合う大切さを訴えた。

◆共鳴させる重み、必要 元経済企画庁長官・田中秀征さん

田中秀征さん

 森友学園を巡る文書改ざんに関与して自殺した財務省職員の赤木俊夫さんは「僕の雇用主は日本国民」「僕の契約相手は国民」と公言していたそうです。彼の使う「国民」という言葉の重みに敬服しました。
 政治家の演説で「国家のため」「国民のため」と乱発されると耳をふさぎたくなるし「国益」という言葉を乱用する官僚にもうんざりしますが、陳腐な言葉でも言う資格のある人が言うと新鮮で説得力があります。赤木さんの言葉は、政治家や官僚の言葉の軽さを際立たせました。
 一九五七年に在任わずか二カ月で病気で退陣した石橋湛山首相を思い出します。野党まで辞めなくていいと言うのに、それに甘えず、予算の成立が遅れれば「国民生活のため」にならないと言って辞めました。「国民のため」という言葉も、言うべき人が言うと身震いするほど感動を呼びます。高校生だった私の記憶に深く刻まれました。
 言葉は人間にとって、大事なものですが、政治家や官僚にはとりわけ重要です。私は、官僚の言葉は人の頭に届け、政治家の言葉は人の心に届けるものと思っています。だから、官僚の言葉は理解されればそれですむのですが、政治家の言葉は人が共鳴し、協力のために立ち上がるものでなければなりません。
 終戦直後に蔵相を務めた石橋さんは、国会での財政演説を徹夜で書いたものの、閣議にも間に合わず、そのまま本会議の演壇に立ちました。日記にはこの演説の構想を練り、言葉を選ぶために二週間を要したとあります。戦後の財政、経済の軌道を敷く歴史的演説となりました。
 その構想力以上に国民が共鳴したのは、彼が戦前の軍国主義の国策に敢然として立ち向かったからです。彼の足跡と人格に対する国民の圧倒的信頼が、彼の発する言葉に比類のない影響力を与えました。
 新型コロナウイルスが世界を覆っています。歴史的非常事態と言ってもよいでしょう。これほど指導者の資質を問われる局面はめったにありません。
 赤木さんの件は、安倍晋三首相にとって最も気掛かりでしょう。検察人事も桜を見る会も頭から離れないはずです。致命的な判断ミスを避けるには、これらの問題を正面から受け止め対応することがまず必要です。この局面での首相の一つ一つの言葉は歴史によって厳しく判定されます。
 (聞き手・関口克己)
 <たなか・しゅうせい> 1940年、長野県生まれ。83年衆院選で初当選。93年に自民党離党、新党さきがけに参加。細川内閣で首相特別補佐、橋本内閣で経済企画庁長官を歴任。現在、福山大客員教授。

◆最近の議論、一方通行 作家・清水義範さん

清水義範さん

 最近の政治家の言葉は分かりにくいというか、一方通行になりがちで対話を拒んでいるように感じます。
 対話というものは本来、二つの意見が積み重なり議論になっていかなければならない。相手の主張に絡まってこちらの論考が深まる「掛け算」となることで予想外の結論に達するのが目標です。ところが、今の多くの政治家はまず、相手の言うことを否定する。揚げ足取り、反発のみの「引き算」です。結果として、議論から何も出てこない、高みに上っていかない。
 安倍晋三首相はその典型ですね。自分の主張を並べ立てるのみ。議論では「そうではありません」「違います」など否定的な発言ばかりで、反対意見には全く耳を貸さないまま話をまとめようとする。それは議論ではなく、話の押し付け、決め付け、投げ出しです。
 昔の政治家はもう少し本気で論争していたし、記憶に残る言葉を発していましたね。多少問題のある人でしたが、田中角栄元首相は事の本質を語ろうとしていると感じました。ざっくばらんに語っているように見えながら、その場しのぎやごまかしの会話ではなく建設的な意見をしゃべっていた。
 今の状況を見ますと、そもそも政治家の言葉というものは「おれは考えているぞ」ということを伝えたいだけのアリバイづくり、ポーズなのだと思い知らされます。何を考えているかを説明するつもりはなく、真に建設的なことを言う気など、はなからない。ぺらぺらしゃべるが、何も言ってないのと同じ。
 最近の政治家はそういう本性を臆面もなく出しています。「国会は言論の府」という建前さえ壊れた。政治状況に緊張が足りないからでしょう。与党が盤石であり過ぎるため、議論で突破しようという必要が全くなく、好きなようにやれる。野党も揚げ足を取るような議論しかできなくなりがちです。
 それが現実だという冷めた見方もあるでしょうが、このような国会軽視は由々しき問題です。国をどう動かそうとするのかさえ説明しなくてもいいというのでは、もう政治ではない。それが多くの国会議員の通念になりつつあるのが怖い。このような言論状況を利用して、憲法改正などで一方的に国を動かそうとする乱暴な政治家が出てこないか、警戒しなければなりません。
 (聞き手・大森雅弥)
 <しみず・よしのり> 1947年、愛知県生まれ。88年に『国語入試問題必勝法』で吉川英治文学新人賞。2009年に中日文化賞。近著に『定年後に夫婦仲良く暮らすコツ』(ベスト新書)。

◆ネット上の言論、影響 政治学者、信州大名誉教授・都築勉さん

都築勉さん

 政治家の「言葉」が日本の政治学者の間で注目され始めたのは中曽根内閣のころ、つまり一九八〇年代の初めです。それ以前はイデオロギーや思想そのものが議論の対象であり、言葉は対象外でした。
 なぜ言葉が大事なのか。私たちは、事象を部分的に切り取って、言語化したことしか認識できないからです。政治の世界では特に言葉が重要で、言葉は政治そのものだと言えます。
 国会は民主主義の基本です。しかし、今の国会はどうでしょうか。新型コロナウイルスの問題が深刻化するまで、与野党の間に政策論争はありませんでした。野党は政権のスキャンダル的な事柄を攻め続け、与党は木で鼻をくくったような態度を取る。不毛な攻防です。
 安倍晋三首相の言説は、何かのプレゼンのような感じで、そつはないけれど味もない。例えるなら、テニスをしていて、来たボールをただ打ち返している。そんな印象です。
 歴代の首相では、八〇年代の中曽根康弘さん、竹下登さんは言葉が巧みな人でした。竹下さんは「言語明瞭、意味不明」と言われましたが、調整型の政治家として傑出した言語能力を持っていたと思います。小泉純一郎さんは、言い回しに個性がありました。彼は言葉が少なかった。それでいいんです。言葉が過剰だと右から左へ聞き流されてしまいますが、少なければ耳を傾けてもらえます。
 日本の政治家には、総じてユーモアが欠けています。余裕がないからでしょう。今の政権は盤石に見えます。首相官邸に権力が集中し、派閥間の激しい権力闘争もありません。しかし、与党議員の中には、政権を失った記憶が残っています。その恐怖から心に余裕がなく、言葉にはユーモアがありません。
 二〇〇〇年代に入ってからの情報革命で、言論空間としてのネットが急速に広がりました。新聞、テレビの影響力は相対的に低下し、政治家はネットを強く意識しています。自分の発言に対し、多くの人に「いいね」と言ってもらいたい。そう考える政治家もいます。
 ネットは本来、開かれた場所ですが、実際には閉じた空間です。ネット上の言論は、極端に走る傾向があります。そういうネットの言論が、国会の議論にも影響を与えている。その点を危惧しています。
 (聞き手・越智俊至)
 <つづき・つとむ> 1952年、東京都生まれ。東京大大学院博士課程単位取得退学。2018年まで信州大教授。著書に『政治家の日本語』(平凡社新書)『丸山真男、その人』(世織書房)など。

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