兄の終(しま)い 村井理子(りこ)著 

2020年5月31日 07時00分

◆死者の沈黙の言葉が響く


[評]若松英輔(批評家)


 長く会っていなかった、むしろ、会いたくないと思っていた兄が、突然、脳出血で亡くなり、作者はその後始末をしなくてはならなくなる。両親はすでに他界していて、兄は離婚をして、親権を得た幼い息子と暮らしていた。
 定型の手続きや葬儀だけではない。混乱というより混沌(こんとん)としたアパートの片づけと生活用品の廃棄、そして残された息子の手当てなどの人生の宿題が、急な豪雨のように降ってきた。
 この作品は実話であり、エッセイということになっている。だが私はこの本を、今年に入って手にしたもっとも手ごたえのある「小説」として読んだ。作者が語ろうとしているのは、自分が何を感じたかだけではない。自分や兄、あるいはそれにまつわる人々を生かしている、ある「ちから」だ。作者をも周縁に追いやるこのはたらきこそ、この作品が、事実の記録を超えた「物語」であることの証しにほかならない。
 読者はページをめくると作者のほかに複数の登場人物に出会う。兄の別れた妻加奈子、兄との間に生まれた娘満里奈、そして兄と暮らしていた息子の良一だ。いわゆる脇を固める人たちにも事欠かない。誰が、あるいは誰と誰の関係が物語の中心になるかは読み手によってずいぶん異なってくるだろう。だが、そうした読みの選びの豊かさが、この本を秀逸な文学作品たらしめているのである。
 亡くなった兄は、残された履歴書にある言葉と追想以外では語ることはない。しかし、この不在であるはずの死者の沈黙の言葉が、読む者の胸をつかんで離さない。
 兄はけっして「よい人間」ではなかった。強がりで、周囲の人に迷惑をかけ混乱を生んだ。作者はそんな兄に強い怒りを覚えている。しかし、そうした心情も、かたちを変えた愛であることを読者は次第に理解する。
 「あとがき」で作者は、兄を許せたわけではないという。と同時に、そのままの兄を受け入れてみたいとも書いている。この世には、怒りという愛が存在するのである。
(CCCメディアハウス  ・ 1540円)
1970年生まれ。翻訳家、エッセイスト。著書『犬ニモマケズ』など。

◆もう1冊

E・キューブラー・ロス著『死ぬ瞬間−死とその過程について』(中公文庫)

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