東京近郊 気まぐれ電鉄 特別企画 昭和おもいで電車 赤い丸ノ内線と黄色い銀座線

2020年6月10日 12時00分

SFマンガの乗り物を思わせた丸ノ内線のデザイン


 厄介なウイルス流行がまだ収まらないので今回は僕の記憶に残る電車の思い出話を語ろう。
 東京の新宿区の西北部、落合界隈で生まれ育った僕にとって、身近な電車というと西武の池袋線、新宿線、目白あたりから乗る山手線、といったあたりになるのだが、都心の方へ行くときに乗る地下鉄の丸ノ内線の車両には、とりわけ強い愛着を持っていた。
 幼稚園児か小学校の低学年の頃、母親のおつかいなんかにくっついて銀座へ出掛けるときは、池袋あるいは新宿からこの地下鉄を使った。丸ノ内線の魅力といえば、何といっても真っ赤なボディーカラー。最近、ラッピング式で赤い電車が復活したけれど、地味な茶系の車両が目についた昭和30年代の中頃、スカーレット調の鮮やかな赤に銀のサインカーブ模様をあしらった白帯、という丸ノ内線のデザインはSFマンガの乗り物を思わせた。さらに、乗り込んだ車内の壁も淡いピンクに塗装されていて、実にエレガント(そんな表現は知らなかったが)なムードが漂っていた。そう、丸ノ内線の車内だけ、なんだか新しい24色入り色エンピツのケースみたいな良い匂いがしたような記憶があるのだが、これは思い込みかもしれない。

心に残る御茶ノ水の先で神田川を渡るシーン


 地下鉄だから、地下の区間が好きだったというわけではなく、胸がときめくのは束の間地上に出る所。新宿からだと四ツ谷のホーム、池袋からだと茗荷谷、後楽園、そして御茶ノ水の先で一瞬神田川を渡るシーン。この神田川のポイントは見映えのする聖橋とその傍らに中央線が走っていることもあって、子供向けの絵本の定番ショットでもあった。幼稚園の頃に愛読していた講談社の絵本「乗物画集(4)」というのが手元に残っていて、ここにそのショットの絵が載っている。
 真ん中で神田川を渡る丸ノ内線は518の番号を付けた500形、左の崖上のホームに見える中央線は初代オレンジ車両の103系で、よく見ると右端の外堀通りに小さく都電も描かれている。中央線の向こうの駿河台の丘に見えるドーム屋根の建物はニコライ堂だ。
 500形の先輩車両に300形や400形もあったが、900番台の数字を付けた900形まで含めて、赤に白帯、サインカーブ模様の丸ノ内線は総称として500形と呼ばれているらしい。この丸ノ内線に乗って、後楽園球場に野球を観に行ったり、後楽園遊園地のジェットコースターに乗りに行ったこともあったけれど、前に書いたとおり、まず回想されてくるのは銀座の思い出である。

東京オリンピック直前まであった西銀座駅


 東京オリンピックの少し前、昭和39年の夏に日比谷線の駅が銀座線との間にできて駅名が銀座に統一されるまで、数寄屋橋寄りの丸ノ内線の駅は西銀座といった。この西銀座で降りて地上に出ていった所に不二家(数寄屋橋店)があった。いまは高いビルになっているが、当時は3階レベルの建物で、1階が売店、2階と3階が<喫茶グリル>なんて看板の出た喫茶コーナーとレストランだった。ここで銀皿のプリンの脇にアイスやクリームやフルーツが盛られた、プリン・アラモードやらプリン・ロワイヤル(正確なメニュー名とはいいがたい)…みたいなものを母にねだって食べさせてもらった。そういったスイーツそのものよりも、シェードがかったガラス戸を開けて室内に入った瞬間に漂ってくる、甘いバニラエッセンスの幸福な香りが鼻の記憶に刻まれている。
 はじめてこの不二家に行った頃は、屋上に赤・白・青のトリコロールカラーに金髪幼女モデル(シャーリー・テンプルといわれる)の顔をあしらったフランスキャラメルのネオン看板が掲げられ、クリスマスの季節には1階売店の入り口に赤や銀のソックス型容器に収められたキャンディーセットがずらりと陳列されていた。
 赤い丸ノ内線はこういう不二家のアメリカンな色合いにピッタリとなじんでいた。

赤い丸ノ内線と黄色い銀座線が並ぶ赤坂見附のホーム


 そんな丸ノ内線は赤坂見附で銀座線と中継する。もっとも銀座でも両線は中継しているが、ホームを挟んで両側に赤い丸ノ内線と黄色い銀座線が並んでいる赤坂見附の光景は電車好きの子供にとって魅力的だった。
 銀座線はいわずと知れたわが国最初の地下鉄で、戦後開通の丸ノ内線(昭和29年、池袋・御茶ノ水間部分開通)に対しこちらは昭和2年に上野と浅草の間で運行が始まった。
 銀座までつながるのが昭和9年、渋谷まで全通するのが昭和14年、当初渋谷・新橋間は東急系の五島慶太が仕切る別会社の線だったこともあって、新橋には使われなくなったもう1つのホームがひっそりと保存されている。

神田や浅草にもあった小さなデパート「地下鉄ストア」


 昔、記念乗車券の類を集めていた僕の手元に、<デパート巡り乗車券>という変わり種のキップが1枚ある。10・10・11の印字があるから昭和10年10月11日(惜しい!もう1日前なら10づくしだったのに)。上野広小路・松坂屋、神田・地下鉄ストア、三越前・三越、日本橋・白木屋、高島屋、とこの地下鉄沿線の駅とデパートの名が列記されて、乗り降りした駅の箇所にハサミが入れられている。つまり、フリーパス的なチケットなのだ。
 ちなみに神田の欄にある地下鉄ストアというのは、地下鉄会社(その後の帝都高速交通営団)が経営する小デパートで、上野や浅草などいくつかの駅に隣接して建っていた。この神田駅のは須田町デパートとも呼ばれていて、90年代くらいまではその名残りの店が神田の須田町側の改札先通路に何軒かあった。確か、満員の銀座線車中でコートのボタンが取れて、通路脇の古びた洋品屋のオバチャンに縫いつけてもらったことがあった。
 浅草の地下鉄ストアは“地下鉄ビル”とか“花川戸ビルディング”などとも呼ばれ、川端康成の「浅草紅団」に主人公の不良少年たちの溜まり場として登場する。今の1番出入り口の所に建っていたビルで、昭和30年代頃までは頂きにシンボリックな望楼が設置されていた。

歴史とともにデザインも変わる地下鉄銀座線


 幼少の頃は赤坂見附のホームでチラ見するだけだった銀座線、よく乗るようになったのは三田の慶応付属中学に入って浅草の友だちができてからだ。近頃この銀座線も黄色いフィルムラッピングを施して、車内もレトロ調に仕立てた初代1000形の復刻車がよく見られるようになってきたけれど、僕が乗り始めた昭和40年代後半あたりは2000形(間には1200形、1500形などがつながれていた)のタイプが主流で、色も黄よりオレンジに近い色合いだった。
 そして、独特だったのが車内の吊り革。といっても、革の部分はなく、6の字を長く伸ばしたような格好をしたプラスチック製で、手を離した瞬間にブイーンとバネか何かの力で元の位置にもどる。この操作はクセになるようなところがあって、空いた車内でむやみやたらとブイーンとやっていて、見回りにきた車掌さんに叱られたことがあった。

車内が突然消灯するのも昔の地下鉄ならでは


 さらに、ひと昔前の銀座線利用者の多くが語るのは、車内の突然の消灯。線路側から給電していた(第三軌条方式というらしい)せいらしいが、ポイントに差しかかったところで電流が途切れて一瞬天井の照明が消える。ドア際に設けられた小さな非常灯だけがぼんやり点灯する、という光景。最近の復刻車にもドア際の非常灯が備えられていて、イベントでこのシーンが再現された模様をユーチューブで見たが、昔の非常灯の灯りは使い古した電球みたいな、もっと薄暗い感じだった気がする。
 地下の浅いところを走る銀座線は階段の上り下りが楽なのがいい。そして、渋谷行きの電車は青山の台地をぬけると、渋谷の谷で必然的に外へ出る。バスターミナルの上の鉄橋を渡って東横デパートの中、(3階)に銀座線が入っていくシーンは長らく渋谷の東口を象徴する風景だった。
 浅草から乗って、ここで渋谷の駅前風景が車窓に見えたとき、東京の東から西へ突き抜けてきたことをいつも実感する。
 (と、今回は地下鉄2線で終わってしまいましたが、またいつか別の“おもいで電車”の話を…)


PROFILE

◇泉麻人(コラムニスト)
1956年東京生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストとして活動。東京に関する著作を多く著わす。近著に『僕とニュー・ミュージックの時代』(シンコーミュージック)、『大東京23区散歩』(講談社)、『東京 いつもの喫茶店』(平凡社)、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』(三賢社)、『冗談音楽の怪人・三木鶏郎』(新潮新書)、『東京いつもの喫茶店』(平凡社)などがある。




◇なかむらるみ(イラストレーター)
1980年東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学デザイン情報学科卒。著書に『おじさん図鑑』(小学館)、『おじさん追跡日』(文藝春秋)がある。
https://tsumamu.tumblr.com/

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