「被爆国の理念」大義あらがえず葛藤<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第3部 アトミック・ボーイ(2)
2020年6月3日 13時55分
東京五輪開幕を二カ月後に控えた一九六四(昭和三十九)年八月。原爆が広島に落とされた日に生まれた青年が、聖火リレーの最終ランナーに内定したことを新聞が一斉に報じた。
「アトミック・ボーイ」「原爆犠牲者の生まれ変わり」。早稲田大一年の坂井義則(故人)は広島県三次(みよし)市の実家で、自らの出自を詳しく報じる紙面を手にしている。
陸上400メートル走で五輪出場を目指したが、前月の代表選考会で落選。落ち込んで帰郷していた。
二歳年下の孝之(73)には、居間のちゃぶ台に置かれた新聞に無表情で見入る兄の姿が印象に残っている。「なんとなく機嫌が悪かった」。家族で話題にもしづらい雰囲気があった。
「戦後、生まれ変わった日本を象徴するにふさわしい記念日に誕生した者」。当時の新聞は、最終ランナーの選考委員だった田畑政治(まさじ)(五輪組織委員会の初代事務総長)が訴えた意見を伝えている。
「はっきり言わないが、たまたまその日に生まれただけと抵抗があったのでは」。孝之は当時の兄の心中を推し量る。三次市は、広島市から北東に七十キロ離れた山あいの街。とはいえ、坂井が原爆と全く無縁だったわけではない。
父守夫(故人)は被爆者だが、坂井が地元でそのことを話した形跡はない。小中高の同級生山下哲士(75)は「原爆について差別があった時代。だから言わんかったんじゃないか」と話す。
「もういやじゃけえ」。最終ランナーに決まった後、坂井は自宅前の河原で、山下に愚痴を漏らしている。「何を寝言を言いようんや。おまえが点火せんだら、オリンピックが始まらんのじゃけん」。山下は語気を強めて励ました。
最終走者に決まってからも、新聞や雑誌がその出自にも注目して大々的に取り上げた。開会式当日、国立競技場近くで坂井に聖火をつないだ鈴木(現姓・井街(いまち))久美江(71)は、坂井が所属していた早大競走部の合宿所に「報道陣が押し掛け、いられなくなった」と聞いている。
五輪の二年前には、米国とソ連(当時)が核戦争をぎりぎりで回避したキューバ危機があったばかり。被爆国日本が世界に平和をアピールするという大義名分にはあらがえない。
「一人であまり冷めた言い方をしてもいけない。努力して切り替えていった」と、坂井は当時の思いを振り返っている。
聖火台に点火された六日後、坂井が葛藤を乗り越え体現しようとした理念に、冷や水を浴びせる出来事が起きた。
毛沢東率いる中国(中華人民共和国)が核実験に成功し、アジアで初の核保有国となった。中国は、東京五輪に台湾が「中華民国」として参加していると抗議し、ボイコットしている。五輪の理想に現実が立ちはだかった。 (敬称略)
<中国の核実験> 米ソが核実験の制限に合意し、1963年に英国を加え「部分的核実験禁止条約」に調印したが、中国は米ソによる核独占を突き崩そうと自力の核開発を続行。東京五輪開催中の64年10月16日、大気圏内の核実験を強行し、日本でも微量の放射線が測定された。
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