はらだ有彩 東京23話 足立区 落語「もう半分」

2019年9月11日 09時00分

古典の人情噺を現代版にリブートする話題作。イラストやテキスタイルデザインも手がける多彩な作家、はらだ有彩さんが、古典の人情噺を元に、現代版としてリブートする話題の新感覚ショートショート。 東京23区を舞台に繰り広げられる人情噺を、軽やかなタッチで描き下ろします。

「よっ、もう閉めちゃった?」
暖簾の降ろされた引き戸が数センチ開き、悪びれない顔が覗く。今日は来ないのかと内心がっかりしていた釈は炊事場の暖簾をぱっと跳ね除けた。
「何言ってんの、五味さんを待ってたんだよ」
伝票を置いてあったレジカウンターを片付けアルコールで拭く。五味はまんざらでもなさそうに日焼けした顔を輝かせ、素面のうちから気の早い舌鼓を打った。
北千住の商店街のはずれ、小さな酒屋が釈の城だ。家業を継ぎ、店を改装して始めた角打ちは専ら近所の人々で賑わっていた。みんな自分の店を閉めて食前酒代わりに釈の店へ立ち寄り、夕飯を食べるためにそれぞれの家へ帰っていく。遅い時間に来るのは五味だけだった。商店街の反対側のはずれで「八百角」という青果店を営んで数十年、組合では「無愛想なおやじ」で通っている男。確か釈が中学生か高校生の頃に、先代から代替わりしたはずだ。
五味は客商売のくせに人付き合いも妙なら、酒の飲み方も妙だった。いつも升に半分だけの量を頼むのだ。どんなときも、必ず半分だけ。おかわりでも「もう半分」、新しいものでも「もう半分」。ある時好奇心に負け、つい理由を尋ねてしまった。尋ねてからあまり良い詮索ではなかったと後悔したが、意外にも五味はこの店で初めての笑顔を見せた。
「俺が編み出した、最もコスパよく、多くの種類を飲める方法なんだ。オリジナルの戦法だよ」
いや、聞いといて何ですけど、それ、俺に言っちゃったら駄目でしょう。そう言うと破顔した。「気づいちゃったか」と笑い転げる五味を眺めながら、彼がかつて詰襟の制服を着ていたことを釈は唐突に思い出した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
酒はいつも釈が選ぶ。冷えた液体が半分注がれた升を五味はちゃぷちゃぷと振った。口をつけるまえから「クウー」と唸るので可笑しい。気に入ったらしく、杯はクイクイと軽快に傾けられる。
「ああ、うめえなあ。あんたんとこの酒が一番うまいんだよ」
「そう言ってもらえるとありがたいね」
「悪いね、遅くまで帰らなくて。あ、もう半分貰おうかな」
「構わないけどさ、五味さんの店、19時かそこらまでだろ。こんな時間まで何してるんです。まさか常連さんの中に鉢合わせしたくない人がいるんじゃないだろうね」
長年の疑問だった。この辺りの商店は大抵、店の上に住居を構えている。だからみんな閉店直後に飲みに来るのだ。一度自宅へ上がり、寛いでからまた出かけるなんて、面倒じゃないか。
「ひでえなあ、滅多なこと言うもんじゃないよ!......そうだな、釈さんになら教えてもいいよ」
大げさに首を振って戦いて見せたそのままの動きで、五味は芝居じみて辺りを窺った。もとより店内には誰もいない。
「......特訓してるんだよ」
「特訓?」
非日常的な言葉遣いを茶化そうとしたが、五味の思いのほか真面目な目つきに、つい顔を寄せる。潜められた声が秘密の重さを掻き立てる。
「......料理の特訓。いつか店先でさ、一品出せるようにしたいんだ。それで毎晩、店閉めてから作ってみてんのよ。女房も俺も元気なうちにさ。俺はもう60だけどね、夢なんだよ」
はにかんだ頬は酒気を帯びて紅潮していた。釈ははっと手をとめる。未来の話などというものは若者だけに許された特権だと思っていたのだ。黙りこんだせいで五味が自分の顔に視線を寄越したことに気づき、慌てて話を続ける。
「ひと仕事終えてからなんて、元気だね。いいなあ、ちょっと食べられる八百屋か。夢があるや。今日は何作ったの」
「玉ねぎのエスプレッソソース」
「エスプレッソ?コーヒー味の玉ねぎってこと?何というか、美味いの?それ」
「バッカ、違うよ、濃くなるまで煮るって意味だよ。それをエスプレッソって呼んでんの。ハイカラだろ?玉ねぎ刻んで、キャベツも刻んで、とにかく細切れにして、コンソメで味つけて、ひたすら煮るんだよ。そしたらどろどろのコーヒーみたいになってくるから、グラタン皿に流して、パンと鶏肉入れてチーズかけて焼く。仕入れ先の農家の人に教えてもらったんだ」
理の特訓、という言葉から想起するよりも随分本格的な献立に、釈はまた面食らった。嫌というほど見慣れた、古びたアーケードの上でそんなものが作られているなんて誰が思い至るだろう。五味は謙遜して言った。
「農家の人が家でやってる食べ方、ちょっとずつ聞いて集めてんの。企業秘密だよ。そのうちお免状も取るんだ。釈さんとこだって、昔お店やってたじゃないか」
「ありゃ女房の実家だよ。俺は料理はからっきし。八百屋さんに他所の野菜の話をするのも気が引けるけどさ、今日も親戚から大量に送られてきたキュウリ余らせて困ってたとこだよ」
「なんだ、キュウリなら美味いのがあるよ。ごま油とね、酒と塩とダシと醤油混ぜて、漬けておくだろ。で、納豆に混ぜる。あ、もう半分」
「教えてもらったお礼に、半分と言わず多めに飲ん
でいいよ」
「嬉しいね。酒飲みにとってこれ以上嬉しいことはないね」
酔っ払った五味は上機嫌で、いつになく饒舌に話した。林檎とレモンの皮を煮たシロップ。野菜の端切れのスープ。電子レンジで作るチップス。
「あら五味さん、いらっしゃい」
「おっ、こんばんは」
奥から妻のふみ子が顔を出した。駄菓子の補充をするべく、つっかけを履いて段ボール箱を担いでいる。踏み台に上がり慣れた手つきで酢イカやらハムかつやらを吊るすふみ子の背中を、五味が愉快そうに眺めた。

「なに、ニヤニヤして。二人で悪巧みしてるんでしょ」
「人聞きの悪いこと言わないで、ふみ子さんも飲むかい」
「店のお酒飲んでたら売るものなくなっちゃうじゃない」
「大丈夫だよ、売るほどあるんだから」
三人とも笑った。人の少なくなった通りに、店の灯りがぽっかりと四角く投げ出されていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「閉店?坂さんのとこが?」
「そうなんだよ、もう参ったよ。あそこもご高齢だからね、仕方ないんだけどさ。いや参った」
汗を拭き拭き、ひっくり返したビールケースに力なく座り込んだ瀧田が目を瞑る。釈は冷たい麦茶を出してやった。商店街の中ほどにミシン販売店を構える瀧田は釈の同級生で、気の置けない仲だ。若いからという理由で、別に若くもないのに振興組合のブロック長をやらされている。
瀧田を悩ませていたのは店を畳んで親戚のいる長崎へ帰るという、寿司屋の坂さんだった。子供の頃からお祝いといえば坂さんの寿司だったなあ、と釈は暢気にノスタルジーに浸っていたが、瀧田はただでさえシャッターが続く一角にさらに空店舗が増えることを嘆いた。苦しそうに喘ぎながら出されたコップを干す。
そして、親しみを込めて学生時代のニックネームを口にしながら、釈の顔をじっと見た。
「......達ちゃん、折り入って相談があるんだけど」
その夜、釈は夕飯を食べ損ねた。考え込んでいたからだ。風呂から上がってようやく空腹に気づき、冷蔵庫を漁ろうとすると、ふみ子が台所で何か作っていた。
「お父さん、腹ペコなんじゃない?明日の昼のおかずだけど食べるでしょ」
「おお、助かるよ」
二人に子供はいなかったが、ふみ子は夫を「お父さん」と呼ぶ。釈はビールを出して食卓に着いた。残暑に、濡れた髪とビール瓶の水滴が心地良い。いくつも並べられた小さな皿を見渡して「なんだ、かえって豪勢だな」と言いながら箸をつけようとし、ふと手をとめた。
「ふみ子、お前」
「食べた?美味しいでしょ、それ」
「おい、だって、これはまずいよ。駄目だよ」
小鉢には全て、いつか五味が話して聞かせた料理が盛り付けられていた。
「なんでよ。あの爺さんがほんとに店出せるかなんて、分からないじゃない。それなら私たちが使ってあげた方が、料理だってお客さんだって、教えた農家の人たちだって喜ぶじゃない。これはむしろいいことなんだから」
釈は顔をしかめながら、昼間の瀧田の話を思い返す。
――坂さんの店、居抜きで買い取ってくれる人を探すらしい。達ちゃん、そこへ何か出さないか。昔ふみ子さんのところで飲み屋やってただろう。この店、バーにして軽食も出したいけど、狭いから区切れないってぼやいてただろう。あんなところにマンションでも建ってみろ、どうせ後から入ってきた住人が『人通りが多くてうるさい』とか言い出すに決まってるんだ。なあ、頼むよ。考えてみるだけでも、頼むよ......。
きちんと切られたキュウリには、ごま油の香りが染み込んでいた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
半年後。釈の店はすっかり話題になっていた。常連客の雑誌編集者が立ち飲み特集号で取り上げてくれたのを皮切りに、地域創生の文脈にも使い勝手の良いニュースは媒体を問わず好意的に書かれ、毎晩たくさんの客が来た。
この数ヶ月間、酒屋にも飲み屋にも五味は一度も姿を見せなかったが、オープンの日に瀧田が贈ってくれたスタンド花には五味の名前が連ねられていた。だから忘れてしまってもいいような気さえしていた。しかし、そんなはずはなかったのだ。三月のある夜、ついに五味が怒鳴りながら駆け込んできた。
「あんた!このメニュー!」
カウンターと立ち飲みテーブルで談笑していた客がいっせいに入口の方を振り返る。手には最近釈が取材を受けた雑誌がくしゃくしゃに握られていた。
「あれもこれも、俺が話してやったもんじゃねえか。お前、あんた、企業秘密だって言ったじゃねえか。釈さん、俺はあんただから話したんだよ、そりゃないよ、なあ、」
しばし動けずにいた客たちがざわつき始める。血の気が引いていく。全身がどす黒く冷え込んでいく。もう引き下がれない場所に立っていることに釈はようやく気づいた。
「俺の、俺の余生の楽しみだったんだ、生きがいだったんだ、人生だったんだよ、それを、」
「......五味さん、何ですかあんた、それじゃ何か、ウチが盗んだっての。もう店ができて二ヶ月だよ。何なの。本当に盗まれたならすぐ来るはずだろう。違うから、今になって来たんじゃないか」
「俺はなあ、最初に見たとき、そりゃショックだったよ。だけど、あんたになら譲ってやってもいいかもなと思って見逃してやったんだ。......それを何だ、この記事は!自分の考えたレシピだって!あれは俺が長年かけて集めたものだ。盗作までは我慢できても、それだけは許せねえ。返せ、返しやがれ、俺の...」
「いい加減にしてくれ、お客さんに迷惑だろう!見てみろ、この有様。帰ってくれ、出鱈目はやめてくれ、レシピを盗んだって、......盗んだって、あんたんとこ、ただの八百屋じゃないか。うちはずっと飲食だよ。うちが温めてきた料理にけち、つける気か、やめてくれよ」
縋りつく五味を釈は突き飛ばす。五味の身体はなすすべなくよろめき、打ちっぱなしの土間に転がった。手をついた拍子に客にぶつかったらしく、きゃーっと悲鳴が上がる。グラスが倒れたのか、辺りに酒の香りが立ち込める。こんなにたくさん酒があるというのに、どうして新しい匂いを感じるのだろう。頭がくらくらしてくる。酪可しているようだ。
「俺はいつか夢が叶ったら、酒はあんたんとこに頼もうと思ってたんだ。それを、それを......あんたは俺の全部を裏切ったんだ、ちくしょう、ちくしょう」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
乱闘騒ぎの噂はまたたく間に小さな商店街を駆け巡った。五味が飲兵衛だったこと、近所付き合いが悪かったことが釈の味方をした。彼の特訓を知る者はただの一人もいなかった。誰もが「前後不覚になった酔っ払いが逆恨みして言いがかりをつけた」と判断し、八百角を避け、五味を避け、目が合えば気まずそうに立ち去った。商店街で孤立することは生活が立ち行かなくなることを意味する。八百角は閉店し、五味はいつのまにか町から消えていた。古びたシャッターは何百年も前から閉ざされていたかのように暗く重かった。
「オーナー、じゃあこちらの内容で、来週また伺いますね」
出入りの業者が釈に愛想よく会釈する。釈は納品リストに記入漏れを見つけ、呼び止めた。
「君、ごめんね、おしぼり増やしてもらえる?そうだな、もう半分くらい...」
言いかけて手が止まる。......今、何て言ったっけ?配達の制服を着た若者は不思議そうにこちらを見ている。慌てて手を振り、何でもないと小さく呟く。五味の一件で同情を集めた釈の店はいっそう繁盛していた。一度信頼を得た店に人々は優しかった。ふみ子と一緒に新しく考えたメニューの評判も上々で、もう五味のレシピの方が少ないくらいだ。若手芸人が深夜番組で「教えたくないお店」と紹介したことでさらに人気に拍車がかかり、『角打ちバルの家飲みおつまみ』という小さな本まで出した。どこから見ても成功という言葉が相応しかった。俺は何も悪いことはしていない。これは実力なんだ。俺の実力なんだ。
一人で頭を振っていると、酒屋の閉店作業を終えたふみ子がバックヤードへ入ってきた。
「お父さん、お疲れさま。仕入れのメール送るけど、要るものあったら今のうちに言っといて」
「そうだな、梅酢の出が早いから足しておいてくれ。もう半分ほど――」
また息を飲む。ふみ子を見ると、厨房に虫を見つけたような顔でこちらを凝視していた。
「ねえ、この間から思ってたんだけど、それやめてよ、その、半分ってやつ。あの爺さんみたい。気に病むことなんて何もないんだから」
「ああ、悪い...」
「疲れてるんじゃない?私、書類の方、やっておくから。どうする?もう終わるなら待ってるけど」
「いいよ、先に帰っててくれ。まだ仕込みが残ってるんだ。あと半分、......」
ふみ子の顔が暗く歪む。もうずっと苦い。許されるはずがない。この店は二人にとって子供みたいなものだった。生まれ育った商店街も、連れ添った妻も、気の良い隣人たちも、釈は愛していた。だけどあの日以来、何もかも濁ってしまった。お品書きに目を通す。天井の灯りを仰ぐ。手を翳す。自分を取り囲む全てが五味から盗んだものに見える。
これからもずっと、胸の半分を五味が占め続けるだろう。半分の半分。半分の半分の半分。残った半分をさらにふたつに切り分け続ける限り、「半分」は永遠に消滅しないことになる。いつまでもなくならない。もう二度と元に戻らない。ああ、うまい具合だね。もう半分貰おうかな。酒に酔って赤らんだ、つやつやと日焼けした肌の匂いが漂い、弾んだ声が聞こえた気がした。鼻の奥に、耳の底に、目の裏に、黒い泥が溜まっている。
もう半分、もう半分――。

覚え書き・《もう半分》
一人娘が両親の老後のために、吉原に身を売って工面してくれた大金。そんな大切なものを酒屋に置き忘れたことから「もう半分」の悲劇は始まります。酒屋夫妻にしらを切られ金を奪い取られた老人は千住大橋から身を投げ、やがて夫妻には老人にそっくりの顔をした子供が生まれることになります。
騙すことに積極的だった妻の方は、気を病んで早々に亡くなってしまいます。一人残された夫が子供のために乳母を雇うも、どういうわけか皆、二日と経たずに辞めていく。不思議に思った夫が夜中に赤ん坊の様子を覗き見ると、わが子は行灯の油を舐めながら、生前の老人の口癖を呟き、二タリと笑うのでした。
この後、夫はどうなったのでしょう。殺されてしまったのでしょうか。もしも老人が夫妻の子供として生まれ直したのではなく、憑依しているだけだったとすれば、子供の魂はどこへ行くのでしょうか。


はらだ有彩



関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを作るテキストレーター。2014年から、テキストとイラストレーションをテキスタイルにして身につけるブランド《mon.you.moyo》を開始。2018年5月、日本の民話に登場する女の子の心情に寄り添う本『日本のヤバい女の子』(柏書房)刊行。「wezzy」「リノスタ」などウェブメディア、『文藝』『東京人』『装苑』など雑誌への寄稿。

◆はらだ有彩公式サイト:https://arisaharada.com/
◆Twitter :@hurry1116
◆Instagram :@arisa_harada

書籍化された これまでの「東京23話」


加藤千恵の東京23話
幻冬舎文庫「この街でわたしたちは」



松田青子の東京23話
河出書房新社「東京 しるしのある風景」



山内マリコの東京23話
ポプラ社「東京23話」

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