本心<265>

2020年6月9日 07時00分

第九章 本心

 遠くの照明に、彼女は、顔の右半分だけを照らされていたが、その頬は微(かす)かに震えていた。
「駄目でしょう、イフィー、それは。」
 三好の拒絶の態度は、ほとんど軽蔑を孕(はら)んだように明瞭だった。僕は、間に立って二人を執り成したい気持ちと、正直に言えば、何か密(ひそ)やかな、仄暗(ほのぐら)い喜びとを同時に感じていた。イフィーを見舞う大きな失意を危惧しながら、三好との生活がこの先も続くかもしれないことを想像した。
 モニターに小さく映っているイフィーは、愕然(がくぜん)とした面持ちで、言葉を失った。
 そして、恐らくは彼自身も、もっと相応(ふさわ)しい場所と時機のために取っておいたであろうその言葉を、切迫した、苦しげな高揚感の中で発した。
「僕は、彩花さんが好きなんです。本気なんです。――朔也(さくや)さん、伝えてください。お願いします。」
 僕は、何か重たいものにズボンのベルトを掴(つか)まれて、その場に引き倒されそうな感じがした。それは、僕が今日まで、決して三好には言うまいと思い定め、その決心を守ってきた言葉だった。しかし、胸に抱かれた以上、その言葉は胸の中で死んでしまってはならないのではあるまいか。吉川先生が、死の直前に、選(よ)りにも選って、 V F (ヴァーチャル・フィギュア)の<母>にどうしてもそう打ち明けねばならなかったように。
 僕は、言葉が僕の本心を伝えることを何よりも恐れ、そして同時に、強くそれを夢見た。そして、哀切な憤りに張り詰めた面持ちで、僕を見つめる三好に言った。
「『僕は、彩花さんが好きなんです。本気なんです。』」
 暗がりの中で、人より余計に大きく開いた三好の目が、静かに赤く染まっていった。彼女は僕を、微動だにせず見ていた。――そう、その時には、彼女はイフィーではなく、確かに僕を見ていた気がした。なぜなら、その眸(ひとみ)には、そこはかとない憐(あわ)れみの色が挿していたから。……
「――どうしてそんなことが言えるの?……」
 三好は僕を見上げ、強張(こわば)った首を傾けながら、今はもう、その震えを隠すこともなく問い返した。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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※6月5日付紙面掲載

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