村上龍「MISSING失われているもの」 今村夏子「的になった七未」 佐々木敦

2019年12月27日 02時00分
 文芸誌はすでに二〇二〇年一月号である。実際に年が明けてから発売されるのは次号なので、例年、各誌では二カ月にわたって「新年」にちなんだ記事や特集が組まれることになる。今月は『群像』が誌面リニューアルとともに「競作24人新年短篇特集」をやっている。男女比が綺麗(きれい)に十二人ずつになっているところに編集部の配慮を感じる。
 文壇の重鎮から新鋭まで幅広い顔ぶれだが、広義のミステリ作家である東山彰良(「猿を焼く」)とSF作家の飛浩隆(「未の木」)が入っているのが新味というべきか。劇団「贅沢(ぜいたく)貧乏」を主宰する劇作家、演出家の山田由梨「目白ジャスミンティー」は未確認だが文芸誌デビュー作かもしれない。
 全体として、主題の選択にしろ文体や形式にしろ、二〇一〇年代を通して「文学」と呼ばれる領域が、以前から進行していた融解をより急速に強めていったということを鮮明に映し出す特集になっている。そもそも「文学」とは定義が困難な概念だが、それは今やますます「或(あ)る種の小説」としか言い様(よう)がないものになってきている。あるいは私がかねて主張しているように、それはただ単に「(文学の専門誌である)文芸誌に掲載されている小説」のことなのだ。逆に言えば、もしも文芸誌という容器がなくなれば、すぐにも「或る種の小説」としての「文学」は消滅の途に向かうだろう。来(きた)る二〇二〇年代は、この未来にどう抗(あらが)うか、が重要な課題になるに違いない。
 村上龍の五百枚長編一挙掲載「MISSING 失われているもの」(『新潮』1月号)は本人のメールマガジンに長期間連載されていたそうだが、私は今回初めて読んだ。思えばこの作家が燦然(さんぜん)と登場した一九七〇年代半ばから「文学の融解」は本格的に始まったと言えるかもしれない。
 作者自身を思わせる「わたし」が、実在自体があやふやな謎めいた女優「真理子」の導きによって、現実と幻想が複雑に入り乱れる過去への旅に出る。泉鏡花や川端康成、内田百〓などを想起させもする、怪しくくすんだノスタルジーが全編を覆っており、やがてそれは「母」という存在/イメージへと収束してゆく。相変わらずの映像的な文章といい、読者の興味を掴(つか)んだままぐいぐいと先に進む推進力はさすがである。「浮雲」「東京物語」「しとやかな獣」「乱れる」「娘・妻・母」「女の中にいる他人」「放浪記」と日本映画の名作が章題に掲げられているのも興味深い。小津安二郎の「東京物語」と川島雄三の「しとやかな獣」以外は成瀬巳喜男監督なのだが、このアンバランス(?)も面白い。
 今村夏子の芥川賞受賞第一作「的になった七未(なみ)」(『文学界』1月号)は、二年程前の「木になった亜沙」(『文学界』2017年10月号)のシリーズということだろうか(物語上の繋(つな)がりはないが)。この作家にしか書けない途方もなく痛々しい作品である。他人がどれだけ物をぶつけようとしてもけっして当たらないという驚くべき運命を背負った女性、七未の生涯を、保育園の頃からのエピソードを淡々と連ねることで物語っていく。一種のまぎれもない奇跡なのだが、それは七未を幸福にすることはない。むしろ彼女はそのせいで非情極まる人生の闇に呑(の)み込まれていく。結末の悲愴(ひそう)さには胸が詰まるほどである。
 思えば今村は『こちらあみ子』でデビューした時から、或る独特な仕方で「聖人」を描いていた。彼女にとって聖(きよ)らかであるということは、この世のありとあらゆる否定性の「的」すなわち犠牲になることなのだ。その認識と筆致は徹底しており、安易な希望など微塵(みじん)もない。むしろそのことが小説世界を凜(りん)とした美しいものにしている。
 『すばる』1月号は「創刊50周年」で、総勢十名の「すばる文学賞受賞作家短編競作」と「50人による『私の偏愛書』」が掲載。短編特集には「1970年、10のできごと」とあり、いずれも創刊年を舞台とした作品となっている。半世紀の歴史だが、同誌は文芸誌の中では最も若い。
(ささき・あつし=批評家)
※〓は門がまえに月

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