不運に泣いた「修行僧」瀬古利彦の坂井義則への思い<聖火 移りゆく 五輪とニッポン>第3部 アトミック・ボーイ(4)

2020年6月5日 13時55分

坂井義則への思いを語る瀬古利彦(後方の写真は東京五輪で聖火台に点火する坂井)=名古屋市内で

 煙をたなびかせ、さっそうと国立競技場を駆ける姿。半世紀以上も前にスクリーンに映し出された東京五輪の最終聖火ランナーは、今もまぶたに焼き付いている。
 後に日本マラソン界のエースとなる瀬古利彦(63)は、このときまだ三重県桑名市の小学生。地元の映画館で東京五輪のドキュメンタリー映画を見て胸を躍らせた。
 二十年ほどたち、最終聖火ランナーはフジテレビのテレビマンとして瀬古の前に現れる。四十歳を前にした坂井義則が、テレビ局主催のマラソン大会への出場を持ち掛けてきた。「あの人なんだ」。瀬古は興奮を抑えられず、「鳥肌が立った」のを覚えている。
 二人は十一歳離れた早稲田大競走部の先輩後輩。瀬古が所属先のエスビー食品で指導を受けていた中村清(故人)は、聖火リレーでの坂井の指導者だった。
 坂井との縁は、瀬古の引退後も続く。「早稲田の駅伝の調子はどうだ」。母校の近況などをさかなに、二人は何度も酒を酌み交わしている。
 「平和の祭典」になりきれない五輪を目の当たりにしてきた坂井は、瀬古自身が味わった無念を共有してくれる相手だった。
 「忘れちゃいけないけど、忘れたい思い出」。瀬古の無念とは、日本が米国などとともにボイコットした一九八〇年モスクワ五輪だった。
 「ああ、そうですか。覚悟していたから、驚かないです」
 八〇年五月二十四日、日本オリンピック委員会(JOC)は二カ月後に迫ったモスクワ五輪の不参加を決めた。金メダルを確実視されていたのが当時二十三歳の瀬古。「修行僧」のニックネーム通り、落ち着いた言葉を新聞に残している。
 発端は前年十二月の、ソ連(当時)によるアフガニスタン侵攻。米国のカーター大統領は西側諸国に五輪不参加を呼び掛け、日本政府も同調した。瀬古は達観していた。「四年後、(米国で開かれるロサンゼルス五輪に)出ればいいじゃんと思った。力が落ちるなんて考えもしなかった」
 ソ連が報復でボイコットしたロス五輪に、再び優勝候補として臨むが、後半に失速し、十四位に終わる。引退間際で挑んだ八八年ソウル五輪も九位に終わった。
 「ああいう思いを今の若いアスリートにさせたくない」。悔しさを胸に後進の育成に力を注ぐ最中、二〇二〇年東京五輪も、新型コロナウイルス感染拡大で延期されてしまう。
 坂井は二度目の東京五輪を見ることなく、突然の脳出血でこの世を去っている。開催が決定した翌年の一四年のことだった。
 「坂井さんが聖火を見ないとダメでしょ。なにやってんの、こんなところで」。病床を見舞った瀬古は、昏睡(こんすい)する先輩に大声を上げた。 (敬称略)
<せこ・としひこ> 1956年生まれ、三重県桑名市出身。早大卒業後、エスビー食品に入社。福岡国際4勝をはじめ、ボストン、ロンドン、シカゴなどを制しマラソンは15戦10勝。ロサンゼルス、ソウルの両五輪にも出場した。現在は日本陸連のマラソン強化戦略プロジェクトリーダー。
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