逃亡者 中村文則著

2020年6月18日 12時32分

◆複雑な物語 歪さが核心


[評]佐々木敦(文筆家)

 「僕」ことジャーナリストの山峰健次は、ドイツ、ケルンの古ぼけたアパートで、謎の男の突然の訪問を受ける。男は山峰が第二次世界大戦で日本軍の作戦を成功に導いたという“悪魔の楽器”、「熱狂(ファナティシズム)」と呼ばれるトランペットを秘匿しているはずだと言う。確かに「僕」はそれを持っている。こうして彼の逃亡劇が始まる。
 近年の中村文則の作品群と同様、本作もまた極めてサスペンスフルな幕開けである。「僕」は謎の男“B”の影に脅えながらも、スパイ映画さながらに移動を続け、やがて小説は回想モードとなる。山峰が「ファナティシズム」を持って国外に出ることになったのは、取材先のマニラで出会い、のちに日本で恋人関係となったヴェトナム人女性アインの死がきっかけだった。抵抗と闘争の歴史であるヴェトナムの現代史、日本人の血を引くアインのルーツを遡(さかのぼ)るかたちで長崎のキリシタン迫害の歴史が語られる。そして山峰は新興宗教の教祖から、『ファナティシズム』の持ち主だった天才トランペッター“鈴木”の手記を渡される。
 複雑な構成を持つ大作である。山峰は政権批判のせいでネット右翼や得体(えたい)の知れない勢力から狙われていた。中村の近作における重要なテーマである新興宗教=信仰の問題も登場する。次々と物語られるエピソードは荒唐無稽なようでいて、ひりひりするようなリアルな肌触りがある。端的に言って、ここには中村文学が対峙(たいじ)してきた主題のすべてが集約されている。
 と同時に、一個の作品として読むと、この小説はかなり歪(いびつ)な印象を受ける。だがこの歪さこそが、間違いなく本作の核心である。小説の最後になって「N」と呼ばれる作家が唐突に登場する。彼は或(あ)る選択をする。そこには、中村文則という作家が、いったい何をやってきたのか、これから何をやっていくのか、という問いへの敢然たる答えがある。彼は混乱している。この世界には問題が多過ぎるからだ。だがひとつだけ確かなことは、それでも彼は書くのをやめない、ということである。
(幻冬舎 ・ 1870円)
1977年生まれ。小説家。2020年、第73回中日文化賞を受賞。

◆もう1冊

中村文則著『自由思考』(河出書房新社)。初めてのエッセー集。
※6月14日に公開した記事を加筆修正しました。

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