<再発見!伊豆学講座>丹那牛乳 トンネル工事 転機に

2020年6月14日 07時51分

水が失われる苦境などをへて、酪農が盛んになった丹那盆地=函南町で

 丹那盆地は、田方郡函南町丹那にあり、標高約二三五メートルに位置している。第四紀洪積世に形成された多賀火山の西斜面には北から田代・軽井沢・丹那、伊豆の国市浮橋と盆地列があって、盆地底の礫(れき)層や湖底堆積物からなる沖積地は水田となっていた。
 盆地内の水系は柿沢川となって流出するが、西斜面を峡谷状に浸食して田方平野に達している。丹那を中心とする源流付近ではワサビ栽培が盛んで、盆地のなかでは柿沢水系を用水にした稲作が盛んな地域であった。また明治維新以来、殖産興業の柱として製糸業と、牧場の開墾で酪農も行われていた。
 大正十五(一九二六)年、函南村で国会議員にもなった仁田大八郎の提唱で、千二百六十人の酪農家が集まり、郡内三十の搾乳所を建設した。これを大場(現三島市)の工場で集乳低温殺菌、大場駅(現伊豆箱根鉄道駿豆線)より冷凍貨車で東京市に運び、赤坂の直営工場で瓶詰めし「三島牛乳」の商標で販売した。当時の農民集団として画期的な事業であった。
 東京では農民生乳として評判がよかったが、まもなく、当時の不況を反映し販売未収金が累積、生産地の業者との集乳競争も激しく経営不振に陥った。昭和十一(一九三六)年、東京工場は残し、郡下の集乳権は新設の東洋製乳株式会社(元森永製菓大場工場)に譲渡。多額の負債の相当部分は組合長の私財の処分で整理し昭和十八年、組合を解散した。三島牛乳は販売できなくなった。
 一方、盛んだった稲作に異変が起きた。昭和九(一九三四)年、盆地の下を東西に通過する東海道線の丹那トンネル開通だ。
 大正七(一九一八)年に着工、当初は工期七年の計画だったが、実際は十六年間に及び費用も三倍以上かかった。難航したのは、日本列島を真っ二つに分断する大断層を突っ切って掘るということ、芦ノ湖の三杯分にも及ぶ湧水と、空気に触れると膨張する「温泉余土(よど)」に絶えずさえぎられたからだ。工事は盆地を潤していた柿沢水系の水を抜いてしまい、ワサビ栽培も稲作もできない地域になってしまった。
 この苦境が転機になった。トンネル開通で東京への輸送が便利になるとして丹那から鉄道駅への道が改良された。後に函南東部農業協同組合の組合長に就任する近藤春雄は、稲作にかわるものとして酪農の振興に力を入れることにした。丹那牛乳の始まりだ。
 近藤は昭和三十(一九五五)年「丹那牛乳」のブランドを立ち上げ、同三十五年函南東部農協の組合長に就任。牛乳処理工場の整備・拡張や三島、沼津、熱海などへの販路拡張など積極的に経営を発展させた。
 同四十七年には東京へも販路を開拓し丹那牛乳のブランドを確立した。平成十八(二〇〇六)年四月、商標法改正で地域団体商標が認められるようになり、翌年四月地域ブランド(地域団体商標)として登録されたのである。(橋本敬之・伊豆学研究会理事長)

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