万波(ばんぱ)を翔(かけ)る 木内昇(きうち・のぼり)著

2019年9月29日 02時00分

◆幕末小説の新領域を開拓

[評]島内景二(電気通信大教授)

 安政五(一八五八)年に新設された外国奉行には、江戸幕府の誇る能吏たちが何人も任命された。だが、幕府外交は失敗の連続で、十年後に幕府は倒れた。この挫折は、なぜ起きたのか。そして、そこから何を学べるのか。
 『万波を翔る』は、歴代の奉行の下で働いた田辺太一の十年間に視点を据える。胆力に富み、落語を愛する田辺は、自己保身に走らず、大胆な言動で外交に携わる。二十七歳で独身だった彼は、しくじりを糧として成長してゆく。
 田辺太一とは何者か。樋口一葉の友人で、一葉に小説家への道を決意させた田辺龍子(たつこ)(三宅花圃(かほ))の父親が、田辺太一である。その龍子は、本書の最後で誕生している。
 作者の木内昇は、魅力的な文体で、新しい歴史小説の枠組みを作り上げた。司馬遼太郎、葉室麟(はむろりん)、佐藤雅美たちとは異なる、新しい幕末小説の領域がここに開拓された。司馬には『この国のかたち』という歴史随想がある。木内は危機的状況に直面した「この国の人々の心」を直視する。そこに、本書の魅力がある。
 田辺太一は、自分と関わる人々の個性を引き立たせる。そして、時間かせぎと引き延ばしに終始する老中たちの無能も浮かび上がらせる。田辺を通して、作者は、史上最大の危機と遭遇した日本人の懸命さや愚かさを写し出す。
 幕府外交を担った幕臣たちが、胸に秘めていた強烈な志には、胸を打たれる。中でも田辺の上司だった経済官僚・水野忠徳(ただのり)は印象に残る。田辺と名コンビを組み、会話を交わすことで、経済外交で「幕府の危機」を救おうとした水野の人間性が明確になった。
 だが、幕府の俊英たちにして「幕府あっての自分」という価値観に囚(とら)われていた。幕府や諸藩という古い枠組みを越え、新しい「この国の風景」を引き寄せられなかった。
 本書を読むと、日本社会と日本文化に必要な「軸=心棒」が、はっきり見えてくる。
 現代人も「近代」や「戦後日本」という概念に囚われていないだろうか。新しい世界と、新しい文化の軸を求める船出の時は迫っている。
(日本経済新聞出版社・2160円)
1967年生まれ。小説家。著書『漂砂のうたう』『ある男』など。

◆もう1冊 

木内昇著『櫛挽道守(くしひきちもり)』(集英社文庫)。幕末の木曽で櫛挽職人を目指した女性を描く。

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