『こころ』異聞 書かれなかった遺言 若松英輔(えいすけ)著

2019年8月25日 02時00分

◆読むほどに激しい経験

[評]いとうせいこう(作家)

 『こころ』が夏目漱石の代表作とされる向きがある。なにしろ教科書に載っているくらいだ。だが、私はこの小説をあえて「失敗作」と呼んでいるし、まして思春期の子供に読ませていいものではないと、かねて主張している。
 数年前に神奈川近代文学館で催された漱石展には、『こころ』の連載に期待する小学生に返信した手紙があり、確か漱石は読むのを「およしなさい」と書いていた。
 Kの自死シーンは今読んでも激しいものである。陰惨な血しぶきが描かれている。それを叙述する先生と、Kや「私」との関係にはセクシュアルなムードが濃厚にあり、そもそも第三部を占める先生の遺書の長さは小説内のバランスとしても、現実の手紙としても異様なものだ。
 だからこそ私はそれを「失敗作」と呼び、そんなものを後半期に書けてしまう漱石の危険な芸術家ぶりにおののいてやまないのである。
 その『こころ』を月刊誌で二年半ほど読み解き続けたのが若松英輔の本書だ。私も連載を何度か目にして、その度に筆者の読みにうならされ、沈思黙考に誘われた。
 若松は例えばキリスト教のストイックな思考を小説の向こうに読み取り、また死者であるKからの視線で読むことを示唆する。あるいは『こころ』それ自体が、かつては若かった「私」の遺書ではないかというほのめかしには、心臓がドキリと動いたものだ。
 さらに若松は、先生が長い遺書を書いたことと、漱石が小説を書いたことを重ね合わせる。書くことは常に、自分の中になかったと思われていたものを発見することであり、未知の自己をぎりぎり統御することである。まるで夢に支配されながら、その結末をわずかに変えるように。
 その現実と無意識の戦いのごときものの末、先生は遺書を残して死ぬ。小説は書かれて我々の前にある。主人公「私」が遺書を受け止めたように、我々読者も『こころ』を受け止めねばならない。
 そんな激しい経験を強いる小説を、やっぱり教科書になど載せていいものだろうか。
(岩波書店・2484円)
1968年生まれ。批評家、随筆家。著書『イエス伝』『常世の花 石牟礼道子』など。

◆もう1冊 

夏目漱石著『こころ』(岩波文庫)。1914年の新聞連載小説。

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