掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン著

2019年8月25日 02時00分

◆瞬間を積み重ねて描く幸福

[評]師岡(もろおか)カリーマ(文筆家)

 人生は、一瞬一瞬の積み重ねだとよく言われる。陳腐にも聞こえるが、愛(いと)しい瞬間が増えるほど、たとえ苦難はあっても最終的に幸福な人生と呼ぶべきものに近づく、と言われてみれば確かにそうだ。幸せなんてとめどなく続くものではないし。瞬間なら自分でも作れるし。この短編集の在り方は、まさにそれを体現しているように感じられた。
 アルコール依存症の祖父や母による性的または精神的虐待の被害者。自らがアルコール依存症のシングルマザー。カトリック系の学校に通うプロテスタントとしての疎外感やイジメと健気(けなげ)に向き合う孤独な少女。南米で豪奢(ごうしゃ)な生活を送る駐在員の娘。ロマンチックなジャズ演奏家と駆け落ちする子持ちの人妻。掃除婦。囚人に作文の手ほどきをする教師。緊急医療の看護師。妹の最期を看(み)取る姉。短編小説の舞台はニューヨークだったりテキサスだったり、飛んで南米のチリだったりするが、これらの登場人物はすべて作者本人であり、彼女の人生経験を基に語られているというから驚きだ。
 一人称で語りつつも、対象とは(その痛みや恍惚(こうこつ)に押しつぶされない程度の)安全な距離を置きながら淡々と情景を描写するなかに、さりげないウイットとポエジーの瞬間がひとつ、またひとつと重なっていく。適度に優しい眼差(まなざ)しゆえにポリティカル・コレクトネス(差別なき表現)の境界線スレスレに言葉を飛ばしても許されるユーモアが心地よく、その巧みな筆致が紡ぎ出す瞬間の積み重ねが、痛みと不条理と悲哀の連続で息苦しくもなりえた本を、奇跡のように幸福な一冊にした。
 「他人の苦しみがよくわかるなどと言う人間はみんな阿呆(あほう)」だと語り手は言う。だから彼女は、どん底を這(は)う登場人物の苦痛そのものについては多くを語らず、読者に苦痛のおすそ分けを押し付けることもしない。私も、彼女(たち)の生き様から何かを学んだなどとは言うまい。ただ、作者が自らの人生を書くその姿勢から、私自身の人生が少し生きやすくなるヒントをもらったのは確かだ。
(岸本佐知子訳、講談社・2376円)
1936~2004年。米国生まれ。20代から小説を書き始め、死後、再評価された。

◆もう1冊 

岸本佐知子編訳『楽しい夜』(講談社)。海外小説アンソロジー。

関連キーワード

PR情報