<わけあり記者がいく>いつもの道を車いすで 設備生かす要は「人」

2020年6月17日 08時09分

車道と歩道の間の小さな段差も車いすの通行には妨げになる=名古屋市で

 その時、私こと三浦耕喜(50)は、新たなスタートラインに立っていた。正確には、車いすなので、座っていた。場所は名古屋市にある中日新聞社の西玄関だ。
 パーキンソン病の進行で二月に脱衣場で倒れ、三週間入院。退院後、歩けるようにはなったが、今後、さらに病が進み、地下鉄を乗り継いでの車いす通勤もあり得る。来るべき日に備え、試してみることにした。
 研修の新入社員四人と同僚、私の計六人。最寄りの市営地下鉄「丸の内」駅のエレベーターを目指した。手前にも出入り口があるが、階段と上りのエスカレーターしかない。
 歩き慣れた道。車いすでも、さほどのことはあるまい、となめていた。会社を出て南に五十メートル。車道とぶつかるところで「下り坂」に出くわした。歩きでは気付かなかったが、結構急だ。
 歩道は車道より幾分高い。車道を横断するには坂を下り、車道中央までの「上り坂」にアタックしなければならない。車道は雨水を排出しやすいよう中央が盛り上がっている。車いすを押す新入社員は「小さな丘のよう」。まさに、山あり谷あり。
 試練は続く。歩道に戻る時、前輪が縁石につまずいた。一〜二センチの段差だが、九〇キロのわが身は重かったか。木の根が潜り込んだアスファルトに工事跡…。歩道も路面のガタガタが伝わってくる。
 地上でこの状況。恐れていた地下鉄は、むしろ快適だった。エレベーターを降りるとほどなく改札に。対応した駅員は淡々と、かつ迅速に、渡し板を持ち、「ホーム上『15番』でお待ちください」と誘導してくれた。
 電車が着くと、駅員がさっとホームとの間に板を渡し、乗換駅では目の前にエレベーターが。動線もよく研究されていた。やるじゃないか。教育が浸透しているのも、無駄のない振る舞いで分かる。
 とはいえ、無事動けたのは都市の中心で、設備が整い、慣れた職員がいたから。いつでもどこでもとはいかない。
 十数年前、政治部で国会を回っていたころ、けがで一時車いすを使った。当時もバリアフリーという考え方はあったが、若い衛視は助けを求めた私に言い放った。「私の仕事は介護ではない」と。
 半身不随で、車いすで活動していた自民党の国会議員に言われた言葉がある。「人類は月までロケットを飛ばせるようになった。しかし、わずか数センチの段差を越えられないこともある」のだと。昨年、重度障害の国会議員が車いすで初登院した際、国会の対応の早さに隔世の感を覚えた。
 思うに、心身にハンディを負う者は社会や周囲の人々にとって、一種のリトマス試験紙なのだ。ハンディを負う者に、どのように振る舞うか。そこに人柄や性格が表れる。例えば、筋肉がこわばり、動きが固まってしまったとき。一瞥(いちべつ)して通り過ぎる人々の中「お手伝いしましょうか?」と声を掛けてくれる方がいる。私は唾液すらのみ込めず、無言で背を向けたままかもしれないが、とてもうれしい。
 新入社員の一人はリポートで、通行人が道を譲ってくれ、車が待ってくれるなど「間接的な力添えは、何度か見られた」と感謝し、問いかける。「いざというとき、車いすのグリップを握り、手助けできる人はどれだけいるのか」
 確かに物理的なバリアフリーは進んでいる。だが、それが役立つかは、扱う「人」次第。見た目の立派さにだまされるな。扱う人を見よ。そして自分も試してみる。そんな態度を身に付けてほしい。
<みうら・こうき> 1970年、岐阜県生まれ。92年、中日新聞社入社。政治部、ベルリン特派員などを経て現在、編集委員。42歳のとき過労で休職し、その後、両親が要介護に。自らもパーキンソン病を発病した。事情を抱えながら働く「わけあり人材」を自称。

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