知と美 鮮やかな存在感 『パリの「赤いバラ」といわれた女 日本初の国際女優・谷洋子の生涯』 歌手、日仏映画研究家・遠藤突無也(とむや)さん 

2019年9月15日 02時00分
 一九五〇年代後半から六〇年代に、世界をまたにかけて活躍した日本人の映画スターがいた。その名は谷洋子。今年で没後二十年になる彼女の足跡を三年がかりで取材し、まとめ上げた。「すごい人なんですよ。でも、あまりにも忘れられちゃっているから…」
 洋子の父は、日野自動車会長を務めた実業家の猪谷(いたに)善一。その父が経済学者としてパリに留学していた時、洋子は現地で生まれた。母、妙子は大正~昭和時代の「モダンガール」で、婦人運動家・奥むめおの秘書をしていた知性派でもある。先ごろ所在が明らかになった鏑木清方(かぶらききよかた)の美人画「築地明石町」は、祖母の江木万世(ませ)がモデルになった。
 足跡をたどり感じたのは、女性三代にわたり受け継がれてきた知と美の系譜。「洋子は大胆でパッショネート(情熱的)。いい意味でも悪い意味でも日本人にある侍魂(さむらいだましい)もあった。『あおいくま』っていう言葉ご存じ? あせらない、怒らない、威張らない、腐らない、負けない。それをまさに実践しちゃった人」
 三歳で帰国した洋子は、二十二歳で再びパリへ留学。その後、キャバレー「クレイジー・ホース」の踊り子をへて芸能界に入った。日本でも映画『裸足(はだし)の青春』などで売り出したがうまくいかず、五八年に英国映画『風は知らない』で女優と認められると活躍の場を広げ、フランス、イタリア、アメリカなど十カ国以上の映画に出演した。
 私生活ではフランスの俳優ローラン・ルザッフルと結婚。映画『天井桟敷(さじき)の人々』で知られる監督マルセル・カルネと三人で暮らしたこともあった。「同時期にパリにいた岸惠子さんはインテリやブルジョアを背負い、日本に帰れば主演映画にバンバン出ていた。洋子は海外のB、C級映画で肉体美で売った。ところがどっこい『洋子はいたよ!』っていう存在感がある。それが忘れ去られそうだから書いたんです。応援団みたいな気持ちで」
 自身が重なるところも。「僕がパリのオランピア劇場でコンサートしても、日本では『それスーパーマーケット?』なんて言われ、やがて死んでしまえば全部なくなってしまう。僕より何百倍も活躍した人が、砂浜が波で削られたように何もない…じゃないだろ、と掘ったらザクザク、大漁の潮干狩りのように話が出てきました」
 さくら舎・二一六〇円。 (岩岡千景)

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