沖縄戦で家族10人を失った83歳女性「今、語らなければ」 戦後75年、初めて体験語る

2020年6月24日 14時00分

沖縄戦体験を初めて公に証言した金城節子さん=20日、沖縄県糸満市で

 20万人超が命を落とした太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍が組織的戦闘を終えたとされる日から23日で75年が過ぎた。戦争で家族10人を失った沖縄県糸満市の金城きんじょう節子せつこさん(83)は体力の衰えを感じ、「今、語らなければ」と自らの体験を初めて語った。 (琉球新報・中村万里子)
 1945年6月中旬、沖縄本島南部の旧摩文仁まぶに村伊原。米軍が空からの爆撃と艦砲射撃で日本軍陣地に徹底的な攻撃を加える中、当時8歳だった金城さんは、ひとりぼっちで戦場を逃げ惑っていた。「パーパー(おばあ)よ」。はぐれた祖母を捜し、泣き叫ぶ少女に、日本兵は「撃つぞ」と銃を向けた。その時、「ヒンギレー(逃げろ)」。近くから声が聞こえた。一目散に必死で逃げた。「神様、神様、助けて、助けて」。心の中で叫び続けた。

 米軍が迫っていた45年6月。金城さんは母の富さんと弟の正一ちゃん、正康ちゃん、祖父の勝二さんと祖母のトクさん、親戚の美代子さん、父方の祖父の次良さんなど計11人で糸満の集落を転々と逃げ続ける中、次々に家族を失った。同じころ、日本軍は与座岳から国吉くによし真栄まえざと米須こめすを最後の防衛線として部隊を再配備し、徹底抗戦していた。米軍は空と海、陸から猛攻撃を加え、西側から摩文仁へ迫った。一家が逃げ惑った時期と経路は、まさに最後の激戦の渦中だった。
 実家のある糸満を出て国吉から真栄里に向かう途中、ちぎれた日本兵の足を踏んで驚いて歩けなくなってしまった金城さん。おぶってくれたのは祖父の次良さんだった。しかし次良さんは歩けなくなり、真栄里の手前で別れた。「お母さんたちに付いて行きなさい」。それが最後の言葉だった。
 真っ赤に防風林が燃える真栄里を通過し、伊敷にたどり着いた。金城さんと母の富さん、弟2人は屋敷内の石垣のそばに隠れ、他の家族は馬小屋に身を潜めた。金城さんは「パーパーのそばがいい」と美代子さんと場所を代わってもらった。
 「バーン」。10分もしないうちに、近くに落ちた爆弾が美代子さんを吹き飛ばした。即死だった。そばにいた母の頭上には、空から機銃掃射が降り注いだ。母がおぶっていた、末弟の正康ちゃんの頭を弾が貫通した。2人の遺体を道端の畑に埋め、先を急ぐしかなかった。
 けがをした母と、母を担いでいた叔父らが遅れ、伊原にたどり着いた時には、祖母と弟の正一ちゃんの3人となっていた。ガジュマルのそばに座った。そこに日本兵が来た途端、爆弾が落ちた。破片が日本兵の鉄かぶとに当たって跳ね返り、正一ちゃんの頭を直撃した。祖母は幼い孫の亡きがらを畑に埋め「後で迎えに来るから」とつぶやいた。
 祖母と2人だけとなり、逃げる金城さんの頭上には艦砲弾が「ヒューヒュー」と飛び交った。爆弾が近くに落ち、ついに祖母ともはぐれた。戻って祖母を捜すが見つからない。たくさんの死体に紛れて米軍をやり過ごし、伊原の近くで米兵に背後から捕らえられた。
 戦後、金城さんは稼業を優先し、自身の戦争体験を公に語らなかった。日本兵に銃を突き付けられた恐怖や戦場での心細さは胸の奥深くにとどめたが、記憶は消えることはなかった。「ずっと苦しかった。この年になったら体験したことを伝えたい、という気持ちを我慢する必要はないと思った。本当に戦争は生やさしいものではない」

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