本心<289>

2020年7月4日 07時00分

第九章 本心

 動揺が大きすぎて、僕は却(かえ)って、その事実に留(とど)まり続ける力を失っていた。深く考えようとしても、麻痺(まひ)したように手応えがなく、自分の中に渦巻いているものを、どう言葉に置き換えたらいいのかわからなかった。
「じゃあ、その男性は、……母以外にも精子を提供していたんですか?」
「お母さんは、二十人以上に無償提供している信頼の出来る人だったと言ってましたね。」
「信頼?……じゃあ、この世界には、僕とよく似た人間が、二十人以上もいるんですか?母親の違う兄弟が?」
「兄弟と呼ぶかはともかく、遺伝子的には。でも、女性も勿論(もちろん)、いるはずですよ。――色んな条件で生まれてきた人がいます。大事なのは、現に今あなたが生きているという事実ですよ。」
 僕は、藤原のその真(ま)っ当(とう)すぎる慰めに少しく反発し、それを敢(あ)えて聞き流すように、話を進めた。
「その母の友人はどうなったんですか?」
「あなたが生まれる直前に、いなくなってしまったようです。」
「どうしてですか?」
「お母さんのおなかが大きくなっていくのを見て、恐(こわ)くなったんでしょう。逃げた、とお母さんは言ってましたが。」
「じゃあ、……母はその友人に取り残されて、独りで僕を産んだんですか? 堕胎せずに?」
「堕胎はもう、出来ない時期だったようです。でも、出来てもしなかったと言ってました。」
 藤原は、そう言った後、しばらく沈黙が続いたところで、「もう一杯、飲みますか?」と、コーヒーを淹(い)れ直してくれた。僕は自分がすべきだと立ち上がりかけたが、制せられた。
 彼が、母の子供として、僕に親切に接してくれていることを感じ、その心境を想像した。そして、あまりに強くその道行きを縛(いまし)められている会話を解きほぐすように、彼は、思い出話を交えながら、近年の母のことを尋ねた。
 元々、母は、藤原のファンで、サイン会などに足を運んでいるうちに親しくなったそうだが、長く続いた関係の割に、最後ははっきりした別れではなく、次第に疎遠になっていったと説明した。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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※6月30日付紙面掲載

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