はらだ有彩 東京23話 練馬区 「お松さま」

2020年7月8日 12時00分

古典の人情噺を現代版にリブートする話題作。イラストやテキスタイルデザインも手がける多彩な作家、はらだ有彩さんが、古典の人情噺を元に、現代版としてリブートする話題の新感覚ショートショート。 東京23区を舞台に繰り広げられる人情噺を、軽やかなタッチで描き下ろします。

「占いババア?」
泉が溶けかけたチューブ型アイスの口を噛み切りながら加奈穂と木綿子ゆうこを振り返ると、顎から汗が一滴落ちた。スカートの色が汗の形に濃く変わり、すぐに乾く。
バス停の屋根にぽつりぽつりと開いた穴から、鋭い日差しが光の粒になって差し込んでいた。駅まで15分、歩いて40分。1時間に4本しかないバスはさっき出てしまった。日光に蹂躙されたベンチは色褪せ、発熱している。
なーんにもない。
泉の高校生活は木とマンションで整えられた住宅街の中にきちんと収まっていた。加奈穂と木綿子は大仰に顔を寄せ合い、RPGに出てくる村人が魔王の噂話をするみたいに喋っている。
「何それ、妖怪?」「何ババアだって?」
泉と木綿子が同時に尋ねた。加奈穂は得意げに声をひそめて応える。
「占い」
「それって普通の占い師では?」
しゃりしゃりとアイスを揉み砕きながら首を振り、加奈穂はRPGに出てくる長老のように話し始めた。
――駅の向こうのショッピングモール、その最上階には数年前の改装にも負けずに生き残った「占いタウン」が、今日もひっそりと客を待っている。白々と明るい占いタウンには面接会場のようなブースが立ち並ぶ。ブースごとに掲げられた変なフォントのポスターをかいくぐって一番奥へ進むと、そこには「占いババア」と呼ばれる老婆が鎮座していて、恐ろしい別れを予言するという――
「ごく普通の占い師じゃん」「私も思った」
「最後まで聞けよ」
加奈穂が憤慨する。暑さのあまり友人の集中力が切れかけていることを察し、長老ごっこをやめて手短に説明することにしたらしい。
別れを予言するっていうか、別れしか予言しないんだって。なんか、とにかく「別れろ」しか言わないんだって。「占いババア」に見てもらうと必ず別れるっていうジンクスまであるんだって。
一息に吐き出すと、加奈穂はさっきまで桃のアイスだった、桃味の水を勢いよく吸い込んだ。泉と木綿子も慌ててチューブを持ち直す。薄い果汁が香った。
「今から行ってみない?」
「……あ、ごめん」
「彼氏?」「立花先輩?」
木綿子と加奈穂が同時に尋ねた。泉は曖昧な笑みを浮かべてごまかす。
1年生の夏休みの終わりに、泉の人生で初めてできた恋人は2年上級の先輩だった。名を立花という。デートらしいデートを数回しただけで立花は受験に突入し、ばたばたと卒業していった。このまま別れちゃうかもなあ、と思ったが案外と言うべきか交際は継続し、立花は今日も講義を終えたあと、駅のフードコートで待ってくれているはずだ。
しかし泉はぼんやりと気が重かった。
最近、会うたびにセックスを持ちかけられるのである。方法はバリエーションに富んでいた。いつまで待てばいいの、と聞くのはかなりストレートなパターン。一泊旅行に行こうとか、始めたばかりの一人暮らしの家に泊まりにこないかというのも、比較的ダイレクトなやり方だ。面倒なのは、大学1年生というものはいかに新入生歓迎会が多いか、新入生歓迎会というものはいかに女の子が多いか、女の子が多いとどういうことになるか、と切々と語られることだった。立花が自分を焦らせようとしていると泉には分かっていたが、「やっぱ女の子って、大学入ると変わるよな、男もそうだけどさ」と何度も言われると、本当に浮気をされるのではないかと想像して気が滅入った。
「ねえ、今日の英語のテイラーの話、意味分かった?」
木綿子が突然話題を変え、考え込んでいた泉は我に返る。零れた砂糖水で手がべたついた。テイラーというのは先生のあだ名で、本名は平である。
「私、前半寝てて聞いてなかった。木が叫んでる、みたいな話してたの、あれ何?」
「それはほら、あれでしょ、今も叫んでるよ」
加奈穂が上体を捻り、バス停の背後の木立を顎で示した。学生時代にイギリスに留学していた平が、ホストファミリーに「日本の木はなぜ夏になると叫びだすんだ」と質問されたというギャグを披露して笑いを取っていたのだ。
「イギリスって蝉いないの」
「いないから聞いたんじゃない?」
「1匹も?」
鳴き声のシャワーを全身に浴びながら、蝉ではなく木が叫んでいるところを泉は想像する。じりじりと照りつけるような音が前後左右から反響しあい、掻き消し合っていっそ静かに思えた。そんな風に感じるのは、騒音に慣れすぎて正しい静寂を思い出せないからかもしれない。初めて蝉の声を聞いた人には、慟哭に聞こえるのかもしれない。
「私、生まれも育ちも日本だけど、鳴いてる蝉の姿って見たことなくない?声は聞こえるけど」
「死んだやつなら無限に落ちてるけどね」
「うちらって都会の女だからァ」
「都会か?ここ」
「都会ではないな」
なーんにもないもんね。空になったアイスの容器をゴミ箱に投げ入れる。3人ともナイス・シュートだった。底に残った液体が熱された歩道に弧を描き蒸発した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日は朝から雨が降っていた。教室中に湿気が満ち、教科書もノートもぶよぶよにふやけている。加奈穂は登校してくるなり、塗れた靴下を机の脚にかけて乾かしながら泉と木綿子ににじり寄った。
「もー最悪だったよ」
昨日、どうやら加奈穂は2人と解散したその足で、占いタウンへ行ったらしい。交際しているアルバイト先の男の子との行く末を聞いて、こっぴどく詰られたのだという。泉は加奈穂の彼氏の顔を思い出せなかった。一度写真を見せてもらったことがあるが、普通の好青年だったような気がする。
「占いババア、マジでめっちゃ別れろって言ってくんの」
「都市伝説じゃなかったんだ」
「自分がモテないから嫉妬してるとか?」
「でも、超当たってんの。全部当たってんの」
「何て言われたの?」
「ひみつ」
「それ言わなきゃ分かんないじゃん」
「それ言っちゃったら、私のお悩み全部筒抜けじゃん」
「確かに」
「……私も行こうかな」
思うだけに留めていたつもりが、声に出ていたことに泉は言い終えてから動揺した。加奈穂と木綿子が左右対称の動きで目を丸くする。何、何、何について聞くの、と交互に身を乗り出す。
「彼氏?」「立花先輩?」
「それ言っちゃったら、私のお悩みだって全部筒抜けじゃん」
「確かに」「確かに」

ついて行くという友人たちの心強い申し出を辞退して、泉はショッピングモールを一人で訪れた。
家族連れが多い客層を意識してか、やたらと遅いエスカレーターでも、4階建ての建物はすぐに最上階に辿り着いてしまう。白々と明るい一角に「占いタウン」の文字が躍る。変なフォントのポスターが簡素なブースの周りを飾っていた。タロット、オラクル、東洋占術、オーラリーディング、前世診断、エトセトラ、エトセトラ、と設備の片手間感に反して、充実のラインアップだ。ブースのない壁にも張り紙があり、「占い師募集!経験不問!」と書かれている。不問なのかよ。そこは経験者であってほしくない?冗談めかして自分を駆り立てながら、泉は加奈穂と木綿子が追及しないでくれてよかった、と考えていた。もしも食い下がられていたら、受験とか進路とか、適当な嘘をつかなければならなかっただろう。
さほど広くない会場の最奥に、つやつやと光る紫色のカーテンがかけられている。サテン生地のふちにびっしりと縫いつけられた金色のふさ。額装されたポスターにはリボンのような片仮名で「ディヴィナシオン・パン」とあった。
「は、入りづらっ」
泉が面倒臭さと怯えと緊張をもって呟くと、被せるようにくしゃくしゃの声が投げかけられた。
「うるさいね、こんなに入りやすい占いなんて他にないよ」
蛍光灯をぺかぺかと反射するカーテンを指でつまむと、香を焚いた空気が流れ出てくる。できるだけ少なくカーテンを持ち上げるよう泉は注意し、細い隙間から身体を滑り込ませた。
薄暗い。
目が慣れると、そこが2m四方程度の、布で区切られただけの空間であることが分かる。小さなLEDのストリングライトがまばらに吊るされ微かに瞬いていた。それは破れたバス停の屋根から差し込む日差しのようにも、夜が明ける前の薄柔らかく掠れた星のようにも見えた。
真ん中に置かれた細長いテーブルが部屋を分断し、「あちら側」と「こちら側」を区切っている。ほつれたクロスの上、小さな蝋燭に見せかけた電球が、揺らぐ炎を模して時折蠢く。よく分からない絵柄のカードと石の塊、枯れかけた鉢植えが散乱している。散らかった板の向こうに、ひとりの老婆が座っていた。
「入りやす…くはなくないですか?」
思わず余計なことを口に出すと、老婆は箒でさっと掃くように、泉の全身を視線ではたいた。ふん、と息を吐いた口元に深いしわが刻まれている。後ろでひとつに束ねられた、きつくカールのかかった髪。黒い服が背景に同化し、首から上と入り混じった白髪だけが暗がりに浮かび上がって不気味だった。
「あんた、恋の悩みだね」
まだやるともやらないとも言わないうちから、老婆は愛想悪く、しかしやや間抜けな言葉選びで言い放った。泉の冷やかし気分は急速に逃げ場をなくし、目線を左右に彷徨わせる。
「はあ、まあ」
「言ってごらん」
「えっ」
「なによ」
「そういうのって、勝手に当ててくれるんじゃないんですか」
「当ててくれる人もいるけど、よそはよそ、うちはうちだよ」
「ええ~」
「人の数だけ占いがあんのよ」
「そういうもん?」
「そういうもんよ」
「じゃあ、えっとお…」

もうすっかり老婆のペースに巻き込まれ、話すことになってしまった。
泉は手に持っていたスマートフォンをテーブルに置き、また持ち上げ、表を向け、裏を向け、無限にひっくり返しながら喋り始める。
先輩、大学入ってから、急に焦りだしたみたいで。去年は春までバレー部の大会があって、あ、私はマネージャーだったんですけど。あ、今はもう辞めたんですけど。あ、辞めたっていうのは、先輩がひとつ下の、私のひとつ上の別の先輩が私のこと狙ってるって言い出して、それで辞めたんですけど。ええと、それで、うち弱小バレー部だから大会とかはさっさと敗退しちゃって、部活が終わってからは先輩は受験で忙しかったからセックスっていうかキスどころでもなかったんだけど。卒業して、春休みくらいから急にそういうこと言い始めて、大学が始まってからはずっとそういう話ばっかりで。やんわり断ると怒っちゃうし、大学生は高校生よりかわいいって会うたびに言われて、えー、そうなのかな、みたいな……。
話しながら泉は、これのどこが占いなんだろうと考えていた。どちらかというと悩み相談、というか身の上話ではないか。別に、ちょっと戸惑っているくらいで、ものすごく困っている、というほどでもないんだけど、と思い顔を上げると、老婆の引き結んだくちびるが、への字に曲がっていくところだった。みるみるうちに梅干しのように顔の中心にパーツが集まり、腕組みをした指がいらいらと肘を叩く。そして開口一番、
「別れな」
「うわ、ほんとに言った」
「何?」
「いえ、なんでもないです」
老婆はまたはたくような視線を寄越したが、ふん、と息を吐くと「別れな」の総攻撃を再開した。これがまた、長い。口を挟む隙がない。ひとつ言い返すと倍になって返ってくる。
「そんな男とは、今すぐ別れるべき。さもなくばあんたは成績が落ち、お小遣いが減り、夏休みも暗黒になるだろう。別れな」
おお、未来の話をされると、ちょっと占いっぽい。ほんのりとした興奮と、だんだん萎えてくる心を両方持ち合わせながら、泉は口答えした。
「でも、友達は『1年も付き合ってんだからさせてあげたら』とか、『彼氏かわいそうじゃん』って」
これは加奈穂と木綿子の台詞ではない。泉は誰にも相談していなかった。木綿子に恋人がいなかったため、笑い話はしても悩みは話しづらかったのだ。想像の中の友達に打ち明けると、架空の友達は泉に、泉が思っている通りのアドバイスを与えた。
「彼氏がかわいそうかどうかは今はどうでもいいんだよ。別れな」
「でも、学校の帰りとか迎えに来てくれるし」
「それとこれとは関係ないんだよ。別れな」
「でも、みんなそういうもんだって先輩が」
「あんたが嫌だって言ってるのに『そういうもんだ』じゃあないんだよ。別れな」
「でも、先輩だって良いとこあるし」
「一番だめなとこがだめじゃないか。別れな」
「でも、話せばきっと分かってくれる気がする」
「散々話してその態度なんだろ、別れな」
ラップバトルのように、何を言っても即座に言いくるめられてしまう。最初は「これがかの有名な…」とRPGに出てくる伝説上の生き物を発見したときのようにお得な気分になっていた泉は、だんだん居心地が悪くなってきた。なんでお金を払って(いくらだろう?足りなかったらどうしよう)怒られないといけないわけ?
「……でも、でも、私もうすぐ誕生日だし、誕生日とか夏休みとか、ひとりで過ごしたくないんですけど!」
泉が想像していたよりも、大きな声が出た。勢い余って立ち上がった拍子に、ブースの壁にパイプ椅子の脚がガン、とぶつかる音がした。手をついたテーブルの天板が大きく傾いで、泉は慌てて両手を顔の横に上げ、椅子を引いて座り直した。
「あんたね」
クロスから滑り落ち、泉の足元に散乱したカードを拾うように促しながら老婆が言った。
「あんたが嫌だって言うのに聞く耳持たない人間とは、別れていいんだよ」
埃っぽい灰色のカーペットに、読み取ることのできないカードがぺたりと貼りついて剥がれない。カーペットはモールの他のフロアと同じで、オフィスに敷くような、染みだらけの地味な模様だった。頭を床に向けているせいで目の奥が痛い。泉は急いで顔を上げた。ぐらつく天板を左右に揺らし角度を調整しようとする老婆に、なお抵抗する。心残りだけの最後の抵抗。
「でも、遊園地行こうって約束してるし」
「遊園地くらいこれから先いくらでも行けるよ、人生長いんだから。別れな」
「でも、今行きたいのに。今年、すぐ、行きたいのに」
「そんなに行きたいなら私が一緒に行ってあげるわ。その方がまだまし。別れ……」
「ほんとに?」
「……え?」
でも、でも、と返ってくることを見越して予め目を閉じてそっぽを向いていた老婆が、顔を傾け、怪訝な表情で眉を持ち上げる。泉は乱雑に集めた、今日一度も使われていないカードの束を老婆の指に押し付けた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
記念すべき夏休みの1日目、泉は10時50分に西武池袋線の豊島園駅に到着していた。
待ち合わせは11時である。持っている服の中で一番大人っぽく見える首の詰まったシャツに、ハイウエストの青いパンツを着た。髪を鏝で強めにカールして、頭の後ろでひとつに結ぶ。
絶好の遊園地日和だが、老婆はまだ来ていないようだった。この炎天下に黒ずくめの人物が現れればものすごく目立ちそうなものだが、それらしい人影はない。やはり、馬鹿らしくなったのだろうか。
はしゃぐ家族連れや、熱気を我慢して寄り添うカップルが、後から後からゲートに吸い込まれていく。約10秒で1周できる駅前の広場を3回パトロールしてから、泉は汗ばんできた身体をベンチに投げ出した。
「あんた、さっきから何やってんの」
半ば絶望していたところへ突然声をかけられて飛び上がる。座り込んだベンチの隣に、薄紫色の夏のスーツを着た女性が腰かけていた。膨らんだ綿のレースに裏地のついたスカートスーツは、見るからに年代物だ。背中に沿って厚い生地がなだらかに湾曲していた。
老婆はさっきから何度も呼んでるのに、あんた全然気づかないんだから、とくたびれ呆れていた。しかし気づけという方が無理ではないだろうか。改めて観察してみても、薄暗いブースの奥に座っていた占い師と、目の前の上品な老婦人が結びつかない。
「ええと、ディヴィナシオンさん…」
「誰だよ」
呼びかけ方が分からず困っていると、老婆は「あんたらがいつも呼んでるやつでもいいんだよ、ババアってやつ」と箒のようないつもの視線を向けた。知られていたらしい。そういえば、加奈穂は何を相談したのだろう。きまりが悪くなり唸っていると、老婆はハンドバッグから縁飾りのついたハンカチを出しながらそそくさと泉に教えた。
「松下だよ」
明るすぎる太陽光の下で見る松下は、だらだらと汗をかいている。美しいハンカチが汗を吸い、ファンデーションが色移りした。
「マツシタさん、来ないかと思ってた」
「夕べあんたの親御さんに電話しただろ」
「そんなの聞いてない」
広場に植えられた街路樹から、蝉の鳴き声がわんわん落ちていた。突然親の存在を持ち出され、泉は気恥ずかしくなった。何か、何でもいいから大人びたことを言わなければならない気がして立ち止まる。
「ヨーロッパって」
ヨーロッパって、蝉が少ないから、日本に来て初めて蝉の鳴き声を聞いた人は木が叫んでるって思うんだって。テイラーの受け売りを少しばかり盛った。
「でも私も、蝉の声は聞こえても、鳴いてるところは見たことないかも」
「いるだろ、そこに」
「どこに?」
「そこに」

松下が植え込みに併設されたベンチに膝をついて、ハンカチを握ったままの手で木の幹を指さす。ハンカチのレースがきらりと反射した。その向こうの幹に目を凝らしてみる。
ぎゃっ、と泉は変な声を上げて飛び退いた。近くを通りかかったカップルが驚いて一緒に飛び退く。咳払いで取り繕い、立ち去るカップルの背中にすみません、と慌てて会釈する。その間も松下の指はずっと矢印の形を作り続けていた。
恐る恐る、もう一度覗き込む。
隆起した樹皮に紛れて、茶色い蝉がびっしりと幹に張り付いていた。1匹や2匹ではなく、びっしり。水玉模様のように、等間隔に。思わず口を開けたまま凝視する。
「今時の都会っ子は蝉も見つけられないってやつかい」
「練馬って、都会かな?」
「都会でしょ」
なーんにもないけどね。松下が笑う。濃い口紅が三角に動いて皺を作った。
泉は松下のくちびると、ひしめき合う蝉を交互に眺めた。
蝉の姿を見つけたとたん、鳴き声が自分の目の前のこの個体から出ているのだと思ったとたんに、存在の手触りがざらりと粟立つ。それは不愉快でもあり、腹立たしくもあり、泣きたくもあった。
半透明だった騒音は、ひとつの独立した怒号として、勝どきとして、歓声として、日差しとともに泉の上に降り注いでいた。

覚え書き・《お松さま》
今回は落語ではなく、練馬に伝わる昔話をモチーフにしています。
――江戸時代、白子川の辺りにお松という高齢の女性が一人で暮らしていた。ある日、嫁入り行列が白子川を通ったとき、突然お松が家から飛び出し、花嫁に襲いかかった。人々がとっさの出来事に驚いているうちに、花嫁の着物はお松によって引き裂かれ、騒動のせいで結婚は破談になってしまった。それ以来嫁入りの行列はお松の家の前を通ることを避け、遠回りするようになった。人々は「お松は自分が嫁に行けなかったから、花嫁を恨み、妬んだのではないか」と想像し、彼女の死後、塚を建て弔ったという。
もしも人々の推測の通りなら、着物を破られた女性は本当に気の毒です。もしもそうでなかった場合には、どのような理由があったのでしょう。高齢の女性が若い女性の「邪魔をしている」ように見える行動は今も簡単に囃し立てられるものです。お松を弔った塚は今も白子川の付近に残されています。着物を破られた女性は、その人生を終えた時、どこに葬られたのでしょう。

はらだ有彩



関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを作るテキストレーター。2014年から、テキストとイラストレーションをテキスタイルにして身につけるブランド《mon.you.moyo》を開始。2018年5月、日本の民話に登場する女の子の心情に寄り添う本『日本のヤバい女の子』(柏書房)刊行。「wezzy」「リノスタ」などウェブメディア、『文藝』『東京人』『装苑』など雑誌への寄稿。

◆はらだ有彩公式サイト:https://arisaharada.com/
◆Twitter :@hurry1116
◆Instagram :@arisa_harada

書籍化された これまでの「東京23話」


加藤千恵の東京23話
幻冬舎文庫「この街でわたしたちは」



松田青子の東京23話
河出書房新社「東京 しるしのある風景」



山内マリコの東京23話
ポプラ社「東京23話」

関連キーワード

PR情報