レガシーメディアの挑戦 ~文芸春秋、日経新聞 デジタルメディアの現在地(5)

2020年7月10日 20時00分
かつて情報を伝える「メディア」と言えば紙の新聞であり、雑誌という時代があった。デジタル化が進んだ現在、それらの媒体は時に「レガシー(過去の遺産の)メディア」と呼ばれる。新聞や雑誌は歴史的使命を終えたのか。長年培ってきた伝統や信頼を次世代につなごうと、レガシーの殻を打ち破り、新たな読者にコンテンツを届けようとする大手の新聞社や出版社の動きに迫った。
(名古屋経済部・石原猛)

◆開発期間4カ月の「異例の挑戦」

大正12年に菊池寛が創刊。100年近くの歴史を持ち、芥川賞の受賞作を掲載することで知られる総合月刊誌「文芸春秋」。2019年11月、新たな挑戦を始めた。有料電子版「文芸春秋デジタル」の旗揚げだ。
雑誌に掲載された記事を毎日、インターネットを通じて読者に届ける。購読料は紙の雑誌とほぼ同額の月900円。文芸春秋では17年から、週刊誌の記事を原則無料でネット配信する「文春オンライン」を運営しているが、本格的な課金型サービスは初めて。しかもプロジェクトを主導したのは入社9年目の若手編集者で、開発期間はわずか4カ月という異例のチャレンジだった。

村井弦(むらい・げん) 2011年、文芸春秋入社。週刊文春の編集者として、全聾(ろう)の作曲家のゴーストライター問題のスクープ記事などを手掛け、15年に文芸春秋編集部。東京都出身

「一定の年齢層に向けた記事ばかりつくっていれば、コンテンツは弱体化する。さまざまな年齢層に読んでもらうことで、つくれるものの幅が広がる」。文芸春秋デジタルプロジェクト・マネージャーの村井弦さん(31)は、文芸春秋の読者層が高齢化していることを踏まえ、電子版創刊の効果をそう説明する。村井さんは週刊文春と文芸春秋の編集部でキャリアを重ね、19年7月、電子版立ち上げの指示を文芸春秋編集長から受けた。
当時の編集部の平均年齢は39歳。20代の編集者も2人おり、最年長の編集長でも50歳という「意外と若い体制」(村井さん)にもかかわらず、読者の7割超は60歳を上回る。若い世代にはほとんど読まれていなかったが、「作り手は若いのだから、コンテンツを入れる『箱』を変えれば広い年齢層に受け入れられる」と確信してプロジェクトを始めた。
村井さんが重視したのはスピード感だった。「たくさんお金を投資し、立ち上げに何年も掛けていたら、その間に世の中が変わってしまう」と、開発期間は3カ月を目標にした。あえてサイトの自社開発をせず、誰もが自由に文章を投稿できるプラットフォーム「note」の法人向けサービスを使い、記事を配信することにした。
配信方法も「当初は雑誌の発売日に、すべての記事を一挙に流すのが、最も満足度を高められると思っていた」と村井さん。紙の読者とデジタルの利用者のニーズが異なることに気付き、サービス開始時は1日の有料記事の配信を2~3本まで絞った。それでも利用者から「記事が多すぎて読み切れない」との声があり、現在は1日1本にまで減らした。ほかにも細かな工夫だが、数字は洋数字に、段落が変わる際には行間を空けて文頭の字下げをしない―など「デジタルの流儀」に合わせたコンテンツづくりを心掛けている。

メディアプラットホームの「note」で記事を配信する文芸春秋デジタル

◆「文春砲」とは違う土俵で

電子版立ち上げから半年で獲得した定期購読の読者は約700人。30代のボリュームが大きく、「今まで紙の雑誌を読んだことが無かった若い読者に、ちゃんとコンテンツが届いている」との手応えを感じる。20年度中には、当面の目標に定めた有料購読者2000人を達成する見通しだ。
あくまでこだわるのは「有料」の読者数であり、ページビュー(PV、閲覧数)は「重要ではない」という。「どんなに良質な記事でも『文春砲』のような芸能人の不倫や政治家の不祥事などのスキャンダルに閲覧数では勝てない。同じ土俵で勝負すべきではない」と村井さんは語る。文芸春秋のコンテンツが良質だと信じるからこそ、コンテンツを無料で見せて広告費で稼ぐのではなく、有料課金のビジネスモデルを追求している。

電子版で掲載したコラムを紙の雑誌に移行した記事

電子版を立ち上げる際、社内には「紙の雑誌のパイが食われるんじゃないか」との不安もあったという。ただ実際に始めてみると「紙の読者と食い合っていないのは、初期の段階で明らかだった」。3万人の雑誌の定期購読者向けに、電子版を無料で読めるパスを配ったが、使ったのは1%にも満たなかった。
村井さんがもくろむのは「紙をブースト(加速)させるデジタル展開」だ。インターネット上で注目を集める電機メーカー、シャープのツイッター運営者によるコラムを電子版でスタートし、その3カ月後には紙の雑誌に掲載。記事の挿絵をネット上で募集し、Webで活躍するクリエーターに描いてもらう試みも始めた。「紙を切り捨ててデジタルを育てるという発想は全くない。紙とデジタルのコンテンツが双方向で行き来する仕組みができれば、紙の衰退も防げるのではないか」。村井さんは期待を抱いている。

文芸春秋の編集部(写真奥)の隣で電子版を制作している。専従スタッフは村井さんを含めて社員2人

◆1年間で20代の新規読者は10万人超

新聞や雑誌といった「レガシーメディア」の世界で、いち早く有料電子版のビジネスを確立したのは日本経済新聞だ。2010年3月に「日本経済新聞 電子版(日経電子版)」を立ち上げ、開始から10年で有料会員数は70万人を数える。若い世代の読者開拓にも成功し、19年中に有料会員になった20代の読者は10万人を超えたという。

渡辺洋之(わたなべ・ひろゆき) 日経新聞常務デジタル事業担当、日経イノベーション・ラボ所長。1985年入社。「日経パソコン」編集長、日経BP執行役員、日経新聞デジタル編成局長などを経て、18年から現職。新潟県出身

電子版の発足時から携わるデジタル事業担当の渡辺洋之常務(59)は「紙の新聞よりも圧倒的に優れたコンテンツを用意している」と自負する。紙の日経新聞の朝夕刊に掲載される記事は一日300本前後だが、電子版の記事は3倍の約900本。記事の検索や保存も可能で、一度出したニュースも、追加情報に合わせて内容を更新するなど、他のメディアとの差別化を図っている。
日経電子版が創刊された当時、新聞社が提供するニュースサイトは無料か、課金しても月に数百円が一般的だった。その中で紙の新聞と同水準の月4000円台という価格を付け、「周囲からは絶対に失敗すると言われた」と振り返る。しかし「紙の新聞を印刷したり、運送する費用がかからない分、4000円の価格に見合った電子版にしよう」との思いで、サービスを磨き上げた。
こだわりの一つは、ウェブサイトの表示速度だ。一般的に、ウェブサイトの読み込みに3秒かかると、半数超の利用者は他のサイトに流出するとされる。社内に40人の技術者チームを抱え、日々、細かな問題点を改善し続けている。米IT大手のグーグルにも、世界最先端の技術でスムーズな表示を実現したと紹介されるほどだ。
また紙の新聞づくりのスケジュールに最適化されていた記者たちの働き方も、24時間いつでも情報を届けられる電子版に合わせて見直した。渡辺常務は語る。「結局のところ、作り手の都合ではなく、顧客ファーストのサービスにすることが最も大事なんです」

◆ピンチを変化のチャンスに

日経新聞の電子版への取り組みが、大きく加速した出来事は2011年の東日本大震災だった。都内の印刷工場が被災し、紙がぬれて使い物にならなくなるなど、翌日の新聞発行ができない危機に直面した。
たくさんの市民が情報を求める中で、すべての紙面をウェブで無料公開することを決断。自社のツイッターなどを通じて情報を拡散したことで、首都圏を中心に、日経発の情報が頼りにされたという。その経緯から、今なお、日経新聞電子版のツイッターの閲読者は314万人で、国内のメディアで最も多い。
新型コロナウイルスの感染拡大で世の中に不安が広まった今春も、日経電子版のアクセスは急増した。特にデータを活用したニュースへの注目が高く、世界の感染状況をビジュアルに表現したコンテンツは、3200万回を超す閲覧があった。在宅勤務が長期化する中で、動画での情報収集を重視する利用者が増えていくと見込み、動画や音声によるウェブセミナーの開催を拡大する考えだ。「顧客ファースト」の視点で、新しい伝え方を試行錯誤し続けている。

日経電子版のトップページ

世界で最も有名で、歴史のある新聞社の一つである米国の「ニューヨーク・タイムズ」は2014年、経営改革に向けた社内文書「イノベーション・リポート」を取りまとめた。序章には「ニューヨーク・タイムズはジャーナリズムで勝利している」「だがわれわれのジャーナリズムを読者に届けるという重大な部分において負けている」と書かれている。
同社ではデジタル技術を駆使してどうすれば情報が読者に届くのかを徹底的に検討し、会社の組織と戦略を組み替えてV字回復を果たした。世界中のレガシーメディアが、後に続く道を模索している。

イノベーションのジレンマ

優良な大企業が既存製品の改良に拘泥していると、新興企業が全く新しい価値観の製品を生み出し、気付くと既存製品は消費者の関心を失ってしまう―。このような現象は「イノベーションのジレンマ」と呼ばれる。大企業は「正しい」行動をしているはずなのに、衰退の道から抜け出せなくなる。

玉田俊平太(たまだ・しゅんぺいた) 1990年、通商産業省(現・経済産業省)入省。筑波大専任講師、経済産業研究所フェローなどを経て、2005年から現職。著書に「日本のイノベーションのジレンマ 破壊的イノベーターになるための7つのステップ」(翔泳社)など。東京都出身(写真は本人提供)

既存メディアがデジタル分野で新興メディアに後れを取る様は、まさにこの「ジレンマ」で説明できる。イノベーションを研究する関西学院大大学院経営戦略研究科の玉田俊平太教授(53)は「あらゆる産業において起こりうる現象だ」と話す。
ジレンマが生じる背景には、大企業が新たな事業に高いハードルを求める点が挙げられる。玉田教授は「既存事業の規模が大きく、生産方法の見直しなどのコスト削減でも数十億や数百億の利益につながる。数億円程度の利益しか生まない新規事業は、どうしても軽視しがちだ」と語る。
一例に挙げるのはデジタルカメラの市場だ。大手メーカーは画素数を上げたり、重さを削るなどの企業努力を重ねたが、一定水準の機能を持つカメラを搭載したスマートフォンが登場し、デジカメ市場は消滅した。「カメラメーカーは携帯電話に搭載されたカメラを『おもちゃのようなもの』と考えていた。ところがユーザー側は、撮った写真をSNS(会員制交流サイト)で送れる利便性などを圧倒的に支持し、メーカー側がついて行けなくなった」と解説する。

♦トップのリーダーシップがポイント

玉田教授は「大企業ほど同業他社や社内の動きには敏感だが、利用者の本当のニーズには鈍感だ」とも指摘する。一時は世界市場を席巻した国内の家電メーカーは、消費者の求める性能を超えて業界内での製品開発競争に突き進み、結果として安い海外メーカーに敗れた。
また「ジレンマを打ち破れるのは、ひとえに経営者のリーダーシップにある」と強調。中長期的な視点による投資が必要で、「短期的な収益に縛られる中では、合理的な経営判断をしているように見えても、ジレンマから抜け出せなくなる」と指摘する。

イノベーション 経済学者シュンペーターの用語で、経済成長の原動力となる革新、新機軸、新結合。技術革新と訳されることが多いが、従来のモノ、仕組み、組織を改革して社会的に意義のある新たな価値を創造する活動全般を指す。

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