本心<295>

2020年7月10日 07時00分

第九章 本心

「あのあと、イフィーと話し合って、つきあうことになったの。それで、色々お世話になったけど、明日、彼の家に引っ越そうと思ってて。荷物もほとんどないし、彼が大型のタクシー、手配してくれたから、ひとまずそれにスーツケースを積んで。」
 僕はここ数日、彼女がいつ、この話を切り出すのだろうかと考えていたので、決断自体に驚きはなかった。しかし、室内の静寂は、明日からまた独りになるということを、無愛想な役所の窓口のように説明して、その寂しさを予告した。
「良かったです。そうすべきだと思ってましたので。荷物は、僕も手伝います。運びきれなかった分は、あとから僕が持って行ってもいいですし。」
「ありがとう。朔也(さくや)君に助けてもらって、本当に救われたし、感謝してます。」
「こちらこそ。短い時間でしたけど、僕も楽しかったです。」
 僕たちは、お互いにぎこちなく微笑(ほほえ)んだ。僕は、ただ沈黙を厭(いと)う気持ちからだけ発する次の言葉が、間違いなく余計な一言となる気がして、自室に戻ろうとした。三好は、それに慌てたように、
「結局、わたしの過去については、まだイフィーに話せてないままなの。」
 と言った。僕は、既に立ち上がってしまっていて、彼女を見下ろすような自分の目の高さを持て余した。
「それは、……いつか話せる時が来れば、でいいんじゃないですか? 今の三好さんを、彼も好きになったわけですし。言いたくなければ、一生、黙っててもいいと思います。」
「……うん。疚(やま)しい気持ちは、やっぱりどっかで、あるんだけど。」
 彼女は、少し安心したように言った。僕は、何故(なぜ)そんなことを、わざわざ今、口にしたのかを考えた。そして、彼女はやはり、遠回しに、僕が秘密を守ることを確認せずにはいられなかったのではないかと感じた。つまり、口止めだった。それは流石(さすが)に、穿(うが)った見方だろうか。彼女が僕という人間を、全面的には信じきれずにいると思えば、悲しくもあったが、しかし、その心情を僕は察することが出来た。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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※7月6日付紙面掲載

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