本心<297>

2020年7月12日 07時00分

第九章 本心

 第一、読んでもらって、どうなるのか? 僕は今まで、そんなことを微塵(みじん)も企図(きと)しなかったからこそ、一切を憚(はばか)りなく、正直に書くことが出来たのだった。
 僕は今、母の死後の危機を、どうにか乗り越えつつあるが、それも大いに書くことのお陰(かげ)であるに違いない。それだけで、十分なはずだった。
 もしこの文章を公表したとしても、誰も、僕の人生には関心を示さないだろう。けれども、謎めいたイフィーの私生活の暴露話としては、注目されるかもしれない。三好の過去も広く知れ渡ることになる。藤原亮治と母との関係も。――
 こんな文章が存在していること自体、藤原にとっては脅威であろうし、送りつけて来られれば、警戒し、不快感を抱くに違いなかった。
 僕は自分が、意図せず、多くの人の人生に、破滅的な影響を及ぼし、彼らを深く傷つけるものを生み出していたことに当惑した。それはまったく奇妙な実感で、人間は、ただ誰かについて忠実に書くだけで、どんなに取るに足らない存在でも、彼らを脅かす存在になり得てしまうのだった。
 勿論(もちろん)、僕はそんなことは望まない。僕はイフィーと三好とを愛していて、藤原亮治からは嫌われたくないと感じていた。
 外でもなく、僕自身の人生が、この文章が人目に触れてしまうことで、立ちゆかなくなってしまうだろう。例えばこれが、何かの間違いで、ネット上に流出してしまったならば?――取り返しのつかないことだった。
 僕はただ、出来るだけ早く、人知れず処分すべきものを書き続けている。しかし、この中には確かに、僕が抹消してしまい難いものが含まれているのだった。つまり、人から理解されたいと感じていることが。――それは、なかったことにすべき事実と、複雑に癒着している。どこかで、どうにか切り分けられるものなのだろうか。
 藤原に次いで、イフィーからも連絡があった。三好への思いの成就についての報告であり、文面の全体に、ほとんど呆然(ぼうぜん)とした態(てい)の喜びが満ち溢(あふ)れていた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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※7月8日付紙面掲載

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