精神科医 斎藤環さん 自粛の倫理の定着は危険<コロナを生きる> 

2020年7月8日 23時41分
斎藤環・筑波大教授

斎藤環・筑波大教授

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 引きこもり問題に詳しい精神科医の斎藤環・筑波大教授は、新型コロナウイルスの感染拡大による自粛生活がもたらした倫理観を、潔癖主義的なキリスト教のピューリタン(清教徒)になぞらえて「コロナ・ピューリタニズム(CP)」と名付けた。本紙のインタビューで、このCPが人々に定着することを懸念。「本来は一過性の行動変容にすぎない。パンデミック(世界的大流行)が去ったら積極的に忘れるべきだ」と説く。(聞き手・今村節)
 CPという概念を提唱したのは、流行初期の段階でロンドン大学の教授が「感染を避けるためではなく、自分が感染源であると自覚して振る舞う方が適切だ」と指摘したことが発端だ。この発想は、キリスト教の原罪意識に近い。「実際に罪を犯したかどうかにかかわらず、罪があるという前提で振る舞え」という教えに似ている。
 その視点で見ると、「3密」の回避も不要不急な外出の自粛も非常に禁欲的な勧めだ。政府が示したこれらの行動変容の指針は医学的な根拠に基づいた勧告だが、一種の道徳的規範にすり替えられているのではないか。

◆従順さと同調圧力


 この現象は、15世紀末ごろに英国で梅毒が流行した時、「性的に潔癖な生活をしたら梅毒を回避できる」という発想が、ピューリタニズムの広がりに寄与した構図に似ている。コロナ禍で獲得されたこの道徳的規範が、無意識レベルで継承される可能性があると、一抹の危惧を感じた。
 もともと日本人は、お上に従順な国民性がある。規範に対する従順さと、日本社会には「周りからどう見られるかわからない」という世間体、同調圧力がある。今回も政府や首長の自粛要請に極めて従順だった。自粛しない人々を攻撃する「自粛警察」の現象は、自粛要請によって正当化された、いわば「正義感に基づく暴走」と言える。
 これは、第2次世界大戦時に英語が「敵性語」とされ、米英文化が全て否定されたことと非常に似ている。当時、国の方針ではなく、民間レベルで取り締まりが起きた。国が指示していないのに、民間が勝手に「仏教はダメだ」と解釈して寺の文化財を破壊した明治時代の廃仏毀釈運動も同様だ。つまり、お上の意向を忖度し、過剰な規制が民間レベルで行われた。まさに、CPの最たるものだろう。

◆一過性の行動変容


 今回の問題で、対人関係の概念が変わった。対人距離は抽象的ではなく、むしろ身体的な概念だと。外で人が近づくと、避けたくなる身体感覚の変化を感じた。
 しかし感染の恐れがない社会では、人を「不潔なもの」として避ける感覚は社会的機能を低下させる。私たちは感染を避けるため、ピューリタンのような清潔、道徳的、禁欲的な生活を強いられた。しかし本来は、これらは一過性の行動変容にすぎない。パンデミックが去ったら積極的に忘れて、3密を回復するべきだ。そして次のパンデミックが来たら、3密を回避する。そうした切り替えの柔軟性が求められている。

◆リアルに会う価値


 今回、自粛生活で人々の精神の幼稚化が起こり、過剰な攻撃性が掘り起こされた。またストレスを周囲に投影し、周囲が自分を攻撃するという錯覚を持ちやすくなった。これは精神分析理論で他人という鏡に自己を投影して攻撃する「投影性同一視」と呼ばれる心理作用で、家族の争いやDV、虐待が増えた要因だろう。こうした攻撃性は、第3者の視点があると抑えられる。家の中が密室化しないように、ビデオ会議アプリ「Zoom」やインターネット電話アプリ「スカイプ」をうまく使えば、再び自粛生活を強いられても攻撃性を抑えやすくなる。
 コロナ禍は、リアルに会うことの価値を見直す契機となった。人々が集まって仕事をするのは効率が良い。一方、発達障害や対人恐怖症の特性を持った人は、会うこと自体が苦痛だ。リモートワーク主体でやる人と、出社する人ですみ分ける方が、企業の効率が上がり、成果も上げられることがわかってきた。旧態依然の常識にしがみつかない柔軟性が、コロナ禍を経験した社会に求められている。

 さいとう・たまき 1961年、岩手県生まれ。筑波大卒。精神科医、評論家。診療経験に基づく引きこもり研究で知られ、専門は思春期・青年期の精神病理学。「中高年ひきこもり」「社会的ひきこもり」など著書多数。2013年から筑波大教授。

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