東京の面影 安藤鶴夫随筆傑作選 安藤鶴夫著

2020年7月12日 07時00分

◆ゆっくりと生きた言葉で
[評]岡崎武志(書評家)

 安藤鶴夫(一九〇八〜六九年)は東京市浅草区向柳原町(現・東京都台東区浅草橋)の生まれ。父は義太夫の八代目竹本都太夫。五、六歳の頃、寄席の帰りに、おぶさった背中から「婆アや、さっきの都々逸(どどいつ)、へただねえ」と言ったという。演芸・演劇評論家となるのは当然か。
 また随筆の名手として多数の著書を執筆。私の世代ではすでに過去の人だったが、旺文社文庫が『ごぶ・ゆるね』『年年歳歳』ほか続々と文庫化し、その存在を知ったのである。明治生まれ、大正、昭和育ちの眼が見た東京下町や寄席の風景は、貴重な証言であるとともに、詩情あふれる筆致と独自な語り口で酔わせた。
 本書はとくに「東京」をキーワードに文章を精選、安藤随筆の何たるかを一冊で伝えている。
「まア、なんだね。ほんとうに考えてみると、あたしぐらい、しようのねエ人間はねえン。よく世の中に、こうやっていられると思うぐらい、自分で愛想が尽きちゃう」
 (「志ん生復活」)
 古今亭志ん生が脳溢血(いっけつ)で倒れ、高座へ復帰する前に安藤が取材。志ん生が乗り移ったような語り口の再現は、まさに名人芸だ。
 あるいは今戸橋の酒亭「まるたか」へ、雪の日にでかけた時の描写。
「そういう時間が、わたしは好きで、いつも、そういう時間にばかり、まるたかへも、のみにやってくるのだが、あかりをつけるのには、まだ、少し早く、そうかといって、もう、夕やみが、そこまできているという、こんな時間を、たそがれというのか」
 (「今戸橋 雪」)
 目の前で見た風景、起きた出来事を写し取るのが文章の役目だが、その本来を越えて、安藤の文体は時の流れや息遣いも写す。読点がやたらに多いのも効果的で、読者はゆっくり読むはずだ。祭り、町、食べ物、人々たちが、生きた東京の言葉で蘇(よみがえ)る。言葉はよく選び、工夫して並べて息を吹きかければ喜んで踊りだす。安藤の文章を読んでそう思う。文章の功徳をつくづく感じさせるのだ。
(幻戯書房・2860円)
「都(みやこ)新聞」(東京新聞の前身)などを経て文筆家。『巷談本牧亭』で直木賞。

◆もう1冊 

吉田健一著『東京の昔』(ちくま学芸文庫)。古い東京を写し出す点は同じだが、句読点が極端に少なく安藤と対照的。

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