本心<301>

2020年7月16日 07時00分

第九章 本心

「滝? どこに? こんな遅くに?」
 僕は、操作画面を引っ張り出して、仮想空間の中の河津七滝(かわづななだる)を検索した。そして、<母>と一緒に移動して、<母>にもその景色が認識できるように設定した。「大滝(おおだる)」という、最も大きな、僕がその帰り際に、母の安楽死の意思を告げられた滝を選んだ。
 また目を閉じ、少し待ってから開くと、眼前に、初夏の光を無数の細かな十字に煌(きら)めかせる滝が現れた。
 緑が覆う岩壁の隙間から、轟音(ごうおん)を立て、白く砕けた水が流れ落ちてくる。滝壺(たきつぼ)の上には、虹の断片がちらついている。緑の木々のトンネルを潜(くぐ)って、彼方(かなた)に向けて流れ出す川も、岸辺に作られた露天風呂や脱衣所も、精巧に再現されていた。
 僕たちは滝壺の縁に移動して、その場に二人で腰を卸(おろ)した。本当なら、飛沫(しぶき)が降り注いで、とても座ってなどいられないはずの場所で、実際、濡(ぬ)れた岩に座って、尻にその冷たい感触がないのは、妙な感じだった。
「まぁ、……すごい滝ねぇ。」
「僕は、前にも一度、お母さんをここに連れてきたことがあるんだよ。リアル・アバターとして。」
「そうだったかしらね、ごめんなさい、お母さん最近、物忘れがひどくて。」
 仮想現実の滝は、実物よりも目前に迫って見えた。記憶の中の滝と混淆(こんこう)し、僕自身の体が、あの四年前の自分と見分けを失っていった。
 しばらく言葉もなく、盛んに溢(あふ)れ出す滝を見つめていた。
 中ほどに大きな岩の突出があるらしく、それを打って、爆発的に膨らむ様も、あの日、見た通りだった。
 花になるはずが、なりきれないまま崩れ続けるかのように、その白い花弁めいた飛沫は、ゆっくりと折り重なるように周囲に散ってゆく。それが絶え間ないことに、僕は胸を締めつけられた。
 僕は、あの時なぜ、母が河津七滝に来たがったのかという長年の疑問に、不意に答えを得た気がした。恐らく母は、かつて藤原亮治と一緒に、ここを訪れたのではあるまいか。『伊豆の踊子(おどりこ)』で有名な場所だから、と、僕に説明したのと同じ理由で。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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※7月12日付紙面掲載

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