<東京写真遺産>1974年2月・池袋西口 「3K」から芸術の街に

2020年7月20日 07時17分

現在のにぎわいからは程遠い池袋西口公園=1974年2月、戸田忠勝さん撮影

 人けのない公園。ぬれた地面が寒々しさを一層引き立てる。撮影した豊島区の戸田忠勝さん(70)は当時、大学四年生で、学生結婚した妻と、池袋駅から歩いて十分のアパートに暮らしていた。学校帰りにカメラの性能を試したくて、パノラマ撮影をしたうちの一枚を送ってくれた。
 中央奥、屋上にボウリングのピンが立つ「東方会館」は、ボウリング場や結婚式場、宴会場を備えていた。「屋上のサーチライトが、住んでいたアパートまで届いて、夜中でも台所の窓が周期的に明るくなった」。目の奥に今も焼きつく光景という。
 パノラマの別カットを見せてもらうと、連れ込み宿やソープランドが写っている。公園にはローラースケート場もあったという。集う子どもたちは、目の端に映る風景を当然のものとして遊んでいたのだろう。
 「暗い、汚い、怖い。外からは『3K』と呼ばれていたけど、怖い思いをしたことはない。住めば都だよ」と話す池袋西口商業協同組合の高浜晴彦・専務理事(73)は、二歳から池袋に暮らす。浅草や銀座の洋品店で働いていた父が独立して西口に店を開いた。
 バス通りに面した商店街の一角、トタンぶきでベニヤ張りの建物一階が店舗、二階が住居だった。通りの反対側には、豊島師範学校(現・東京学芸大)の焼け跡に建った闇市の店がびっしりだったという。区画整理の末、商店街の人々が出資して一九六六年に建てた「池袋西口センタービル」の一階に店が入り、一家は西池袋の一戸建てに移った。闇市の跡地に七〇年に開設されたのが、西口公園だ。
 区史によると、公園に隣接する学芸大付属豊島小学校は六四年三月に閉校したものの、跡地利用の方向性が二転三転。七二年には広場として開放され、駅前一等地で草野球をする子どもたちの写真が残る。九〇年、その土地に東京芸術劇場がオープンした。
 二〇〇〇年代初め、テレビドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の影響で公園は一躍有名に。都外からもナンパ目的の男女が集まり、一時、一般客が遠のいた。そのころ始めた商店街と警察のパトロールは、客引き防止に目的を変えて今も続く。

夕暮れの池袋西口公園。きらめく5層のリングの下を人が行き交う。右奥に東方会館跡地に建った高層マンションが見える

 昨年十一月、西口公園は芸術の発信拠点「グローバルリング」として生まれ変わった。ステージや大型ビジョンが設置され、頭上には直径三十五メートルの五層の曲線が輝く。後ろには、東方会館の跡地に建った高層マンションが見える。
 戸田さんは「若者の間でやや侮蔑的に『ブクロ』と呼ばれていた池袋が、芸術文化の拠点を目指す街になろうとは、予想もしなかった。でも、ちょっと薄汚れてあか抜けない昔の池袋も、それはそれで一つの文化だったよね」と懐かしむ。
 文・小形佳奈/写真・戸上航一
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