本心<313>

2020年7月29日 07時00分

第九章 本心

 到着が早すぎて、ティリの姿はまだなかった。
 店員に予約名を伝えると、室内とテラス席とを選べると言われた。外は考えていなかったが、意外に何組かの姿があり、僕は、丁度(ちょうど)空いていた、日比谷公園を見下ろす四人がけのテーブル席にしてもらった。
 バッグを傍らに置いて一息吐(つ)いた。じっとしていても、寒いということはなく、外気が心地よかった。
 大通りを行き交う車の音が聞こえていたが、それも気にならない程度に留(とど)まっていた。その先では、冬枯れの公園に残る常緑樹が、折から射(さ)してきた日光に映え、微風に美しく揺れている。光と影、枝葉の動き、吹き抜ける風といった大きな一体感は、やはり仮想現実とは違うと感じた。
 テラスに設置されたガラス製のフェンスに、雀(すずめ)が一羽、こちらに背を向けて、止まっていた。僕は、綿花のようにまん丸に膨らんだ、その愛らしいお腹(なか)をしばらく見ていた。普段は、日比谷公園に棲(す)んでいるのだろうか? そして、雀の頭越しに、また木立の緑と青空を眺めた。
 僕は、雀の目に、この世界がどう見えているのかは知らない。その全身に、この世界がどう感じ取られているのかも。しかし、人間である僕と、まるで違うことだけは確かだった。
 それぞれに、この世界を、自分の生存に必要な方法で認識している。僕と雀とが、この世界を真に等しく享受するのは、死後、僕たちの種に固有の認識システムが破壊されて、宇宙そのものと一体化する時だろう。だとすれば、僕に今、あの木の緑が、あのように美しく見えていることには、僕が生きていく上で、必要な意味があるのだった。……
 女性店員がメニューを持ってきて、一瞬、陰になった。僕は、それを少し残念に感じた。恐らく、人の気配に驚いて、彼女が立ち去ったあとには、もう雀の姿はないだろう。
 僕は、気も漫(そぞ)ろでメニューの説明を聞いていた。しかし意外にも、再び開かれた視界の中に、雀はまだ留まっていた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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※7月25日付紙面掲載

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