本心<315>

2020年7月31日 07時00分

第九章 本心

「俺は、今でもおかしいと思ってるよ、今の世の中。」と、また岸谷の言葉が過(よぎ)った。僕はそれに、何度でも同意する。そして、その世の中を、彼とは違った方法で変えたかった。それでも、出来れば僕は、子供が、自分の好きな色のビーズだけを、好きな順番で糸に通してゆくように、記憶の中から、ただ楽しかった思い出だけを取り出して、過去から今に至るまでの僕という人間を作り上げたかった。それは、この僕ではない。しかし、僕自身よりも、僕の夢を愛することを、一体、誰が責められるだろうか。
 僕は死の一瞬前に、天国を、あのプールサイドのような場所だと思い描くかもしれない。
 あの日は確か、夕暮れ時だった。永遠に太陽の没しない夕刻で、プールは内からの照明に煌(きら)めいていた。しかし、僕はいつの間にか、その光景を、午後のもっと明るい時間のように錯覚していた。
 そこに、母がいてほしかった。しかし、それだけでなく、未来の誰かも。丁度(ちょうど)今、目の前で飛び立ったあの雀(すずめ)のように飛来する誰か。……
 僕は、雀を目で追おうとした。しかし、瞬(まばた)きの隙に取り逃がしてしまって、あとにはただ空だけが見えていた。
「おそくなって、すみません。」
 ティリは、少し頬(ほお)を赤らめて、僕の視界に入ってきた。僕は、雀の出立が、彼女の到着を告げる合図だったことを知った。
「気がつかなくてすみません。考えごとをしていて。――外にしたんですけど、大丈夫ですか? 寒ければ、中でも。」
「いえ、急いで来て、暑いので外で大丈夫です。」
 そう言って、彼女は濃いガーネットのセーターのタートルネックを少し引っ張り、籠(こ)もった熱を逃がした。
「寒くなったら、言ってください。」
「はい。」
 照明のせいで画面越しでは陰りがちだった彼女の顔が、精彩を放って見えた。髪の色も、少し明るくしたのかもしれない。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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※7月27日付紙面掲載

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