本心<316>

2020年8月1日 07時00分

第九章 本心

「いいお店ですね。よく来るんですか?」
「いいえ、初めてです。ネットで探しました。でも、まだ食べてないので、わかりません。」
 座りながら、彼女は微笑した。
 メニューは、メインを選べるランチコースか、パスタコースだけで、僕はポークのソテーを、彼女はメカジキのグリルを選び、二人で炭酸水を一本注文した。
 お礼にと誘われたランチだったが、支払いのことはあとで話し合うつもりだった。
 ウェイトレスが下がると、ティリは、小さく深呼吸をして僕を見た。そして、すぐに目を逸(そ)らし、改めて顔を上げた。
「元気でした?」
「はい。朔也(さくや)さんは元気でしたか?」
「ええ、……はい。」
 僕たちは、このところの天候のことをしばらく喋(しゃべ)って、今日の陽気を喜んだ。それから、皿が出てくる前に、僕は、持参した書類を取り出した。
「これ、前に話した学校の説明なんですけど。」
 僕は、何度かやりとりする中で、彼女にもう一度、日本語を勉強し直してはどうかと提案していた。彼女の生活を向上させるためには、それは避けることが出来なかった。
 ティリは、「そうですね。……」と曖昧に頷(うなず)いて躊躇(ためら)っていたが、妹についても尋ねると、「妹は、勉強させてあげたいです。」と言った。
「だったら、一緒に勉強してはどうですか?」
「そうですね、……出来れば。お金が心配ですけど。」
 僕は、日本に住んでいながら、言語の習得が不十分な外国人の子供たちに、日本語を再教育する「羽ばたきの会」というNPO法人に、ティリのケースについて相談していた。成人は対象外にしていたが、以前から問い合わせも多いので、検討したい、一度見学に来てほしいとのことだった。必要があれば、その場で面接もする、と。
 持参したのは、その案内で、難しそうな箇所は、手書きで説明を加えていた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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※7月28日付紙面掲載

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