<視点>スポーツが社会にある意味とは…コロナ禍で思う 運動部・神谷円香

2020年7月28日 10時15分

昨年12月、ボッチャ日本選手権での最も障害が重いクラスの決勝の様子=愛知県豊田市のスカイホール豊田で

 電動車いすに乗った大勢の観衆が憧れの目を向ける。昨年12月、東京パラリンピック代表選考がかかったボッチャの日本選手権。会場には選手と同じように重度障害のある人たちも訪れた。白熱した試合が進むコートの周りには所狭しと車いすがひしめく。「さすがレベルが高いね」。見る人を驚嘆させる選手たちは観客にとってスターだ。

神谷円香記者

 脳性まひで言葉を発しにくい選手、人工呼吸器が手放せない選手もいる。運動部の記者たちは等しく周りを囲み、勝因や次戦への対策を質問していく。日本ボッチャ協会広報の三浦裕子さんは、2016年リオデジャネイロ・パラリンピックで初めてメダルを取るまでは考えられなかった光景を感慨深く見つめつつ、競技が抱えるジレンマとも向き合っていた。
 就労支援施設で十分とはいえない賃金で働いていた選手が、一般企業にアスリート雇用されメディアにも登場する。輝かしく映るのは喜ばしい。ただ、そんな選手も日常では生活介助が必要だ。遠征には時に選手より多数のスタッフが同行し、入浴やトイレ、着替えを手伝う。進んで見せたくはない姿。それも障害者である彼らの現実なのだ。
 「大変さばかりがクローズアップされ、お涙頂戴になるのも嫌。でも、どこかのタイミングでうまく伝えられたら」。東京大会の延期が決まる前、三浦さんは話していた。そう考えると、今は1つのタイミングではないかと思う。新型コロナにより世界中でスポーツの動きが鈍り、スポーツの力とは何かを多くの人が考えているこのときが。
 障害のあるアスリートには、社会部の記者に取材されるのを嫌がる人が少なくない。選手としての成績や技術の工夫は二の次に、障害や社会環境による影響を社会面で書かれるのは本望でないからだ。純粋にアスリートとしての姿だけを見てほしい気持ちは分かるが、障害者アスリートに限らず、「スポーツ報道は本当にそれだけでいいのか」という疑問は、自分の中でずっとくすぶっている。
 希望してもなかなか受けられない人がいる中、プロ野球やJリーグの選手はPCR検査を受けられている。若い力士が感染し亡くなった悲劇の裏に、20代でも糖尿病が珍しくない相撲界の現状がある。理念が揺らいでも五輪・パラリンピックは何としても開催する―。このままでは、スポーツ界が現実離れしていくように感じる。
 音楽や演劇、映画の力を信じる人がいるように、スポーツに力を感じる人もいる。それらに関わる多くの人が仕事を失った今、苦しい現状をさらけ出し、決して不要ではないと、社会に存在する理由を訴えている。何に支えられ、何のためにスポーツを見せるのか。コロナ禍の困難な社会でそれを体現できたとき、アスリートの勇姿をまた見たくなる人は増えるはずだ。

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