埼玉県鶴ケ島市とミャンマーつなぎ30年 インパール作戦生還の元兵士の「恩返し」奨学会

2020年8月3日 13時45分
今年1月、奨学会の新年会で駐日ミャンマー大使のミントゥさん(前列右)と記念撮影する今泉清詞さん(同左)=埼玉県鶴ケ島市で(ティティレイ教授提供)

今年1月、奨学会の新年会で駐日ミャンマー大使のミントゥさん(前列右)と記念撮影する今泉清詞さん(同左)=埼玉県鶴ケ島市で(ティティレイ教授提供)

  • 今年1月、奨学会の新年会で駐日ミャンマー大使のミントゥさん(前列右)と記念撮影する今泉清詞さん(同左)=埼玉県鶴ケ島市で(ティティレイ教授提供)
  • 元奨学生のティティレイ城西大教授
 東京五輪・パラリンピックに向けてミャンマーのホストタウンを務める埼玉県鶴ケ島市。市と同国をつないだのは、第2次世界大戦で同国に恩を感じた市民が平和を願って30年前に始めた交流活動だった。新型コロナウイルスの感染拡大で来年の五輪開催は未知数だが、準備を進める中でも確実にきずなを強めている。 (中里宏)
 「多くの戦友を助けてくれた恩返しがしたかった」。同市の今泉せいさん(96)が1989年からミャンマーとの交流を始めたのには、そんな思いがあった。
 第2次大戦中の44年、日本陸軍がビルマ(現ミャンマー)からインド攻略を目指したインパール作戦に兵士として参加。補給を軽視した無謀な作戦で壊滅的な犠牲が出る中、九死に一生を得て生還した。
 戦後、現在の鶴ケ島市に入植し、山林を1人で開拓。やせた土地で苦労を重ねたが、酪農やゴルフ練習場などの事業で成功した。
 74年、ビルマで初めて行われた慰霊祭に参加した。東南アジアには戦争被害による反日感情が強く残っていた時代。「日本人は帰れと言われるかも」と覚悟したが、目にしたのは一緒に手を合わせてくれるビルマの人々。「現地の家にかくまわれ、英軍の追討を逃れた戦友も多い。生きているうちに恩返ししたい」と感じ、国を担う若者を育てることを思い立った。
 国に財団づくりを陳情したが、らちが明かず89年、私財を投じて「今泉記念ビルマ奨学会」を設立。戦友らの協力も得て、留学生10人に2年間、月4万円の給付を始めた。留学生には毎月自宅まで来てもらい「あなたたちは日本とミャンマーを結ぶ親善大使。誇りを持って受け取って」と手渡した。日本で孤立していた留学生がつながりを持てる場にもなった。
 2007年度まで19期、約200人に上った奨学生たちは今、各界で活躍し、今泉さんを「日本のお父さん」と呼ぶ。隣の坂戸市にある城西大国際教育センター副所長で「鶴ケ島ミャンマー交流大使」のティティレイ教授(60)もその1人。2期生で、「奨学会はお金以上の存在。心のよりどころだった」と話す。
 奨学会は現在、ミャンマーにいる奨学生OBらが引き継ぎ、子どもたちの支援を続けている。鶴ケ島市国際交流協会は07年から、ミャンマーの子どもたちへ文具を贈る運動を始めた。息の長い交流を基盤に、17年のホストタウン登録は「駐日大使の推薦もあり、すんなり決まった」(ティティレイさん)という。
 18年からは、市内の伝統的な雨乞い行事「脚折雨乞すねおりあまごい」とミャンマーの水かけまつり「ダジャン」を融合した「鶴ケ島水かけまつり」も開催され、多くの市民とミャンマー選手団、駐日大使らが参加。交流の輪が広がっている。
 今泉さんは「個人で始めたことが広がり、両国が良好な関係を続けていけたら、これ以上のことはない。戦友たちも安心して眠れる」と話している。

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