「殺してくれ」うめく戦友残し… 激戦地レイテ島から生還した元上等兵が背負うものとは<つなぐ 戦後75年>

2020年8月4日 05時50分
 遺体が漬かる水たまりの水をすすり、「殺してくれ」とうめく戦友を残して退却―。東京都品川区の元陸軍上等兵、島田殖壬ひろとおさん(94)の脳裏には、太平洋戦争で最激戦地の1つとなったフィリピンでの情景が今も鮮明に残る。兵士の大半が戦死し、フィリピン戦の中でも特に悲惨な戦場だったレイテ島で負傷し、終戦を迎えてから75年。「戦争なんて、何もいいことがない」と言い切る。(梅野光春)

レイテ島の内陸部に前進する米軍部隊。前方の白煙は日本軍の砲弾によるもの=1944年10月(ACME)


◆遺体が漬かる水を飲み…

 島田さんは1944(昭和19)年3月、18歳で陸軍に志願。「勤め先の印刷会社が金属供出でつぶれた。両親も亡くなって行き場もない。どうせ20歳で徴兵されるなら早く入隊し、同い年の人より偉くなっておこうと軽い気持ちだった」と振り返る。
 東京に本拠を置く第1師団歩兵第1連隊に所属し、旧満州(中国東北部)で訓練。同年8月に南方へ移動を始め、11月にレイテ島に着いた。同島に上陸した米軍を撃退するためで、背嚢はいのう(リュックサック)には1週間分の食料。戦闘はすぐ終わると思っていた。物量で米軍が圧倒していることなど、知るよしもなかった。
 だが上陸3日目に米軍機の機銃掃射で右肩を負傷、後方で手当てを受けた。その間、所属部隊は米軍と交戦し、多くが戦死した。傷は1カ月ほどで癒え、偵察で最前線に出た。そこで米兵と撃ち合いに。そばにいた同年兵が即死した。
 「米兵は自動小銃でパパパパッと連射してくる。こっちは単発でパン、パンと撃つ。かなわない」。逃げ出すのもままならず、時間がたって喉が渇き、戦友の遺体が漬かった水たまりの雨水を飲んだ。隙を見て、なんとか脱出した。

◆手りゅう弾を渡され「自決しろ」

 12月末に、同島の西にあるセブ島へ移動。ジャングルを転戦する中、45年4月に迫撃砲が目の前で破裂、右腕を負傷した。「神経もやられて痛くなかったが、血が止まらなかった。『自決しろ』と手りゅう弾を渡された。ある軍曹が『歩けるだけ歩け』と付き添ってくれ、部隊を追尾できた」。衛生兵の手当てを受け、死なずに済んだ。
 45年8月15日の玉音放送は戦場で聞けず、同月下旬に無線で敗戦を確認。投降して銃や軍隊手帳など所持品をすべて失った。それでも現地の収容所で食事が1日3回出たのが救いだった。「戦場では、乾パン少しとか、偶然見つけた牛をさばいて食べるとか、食料には苦労した」と話す。
 同年冬、神奈川県の浦賀へ帰還。「雪をいただいた富士山を船から見て『帰ってきた』と実感した」。その後、再び印刷関係の仕事に就き、娘2人と孫5人、ひ孫6人に恵まれた。

フィリピン・レイテ島やセブ島での戦場体験を語る島田殖壬さん=東京都品川区で

◆「戦争したいなら、前線に立ってみろ」

 戦争体験は、イベントなどで幾度か語ったことがある。あまりにも現在の日本の状況と違っていて「今の人に、分かるように伝えるのは難しい」と感じる。ただ、深い傷を負った戦友の「殺してくれ、殺してくれ」という声や、米軍がどんどん撃ち込んでくる砲弾への恐怖は消えはしない。
 「戦争を国と国のけんかくらいに思うかもしれないが、戦場で使われるのは人間。やりたいなら、おまえ、前線に立ってみろって言いたい」。復員した仲間も1人、また1人と先立つ中、残る者の「伝える」という責務を背負っているように見えた。

 フィリピン戦 1941(昭和16)年12月の太平洋戦争開戦直後、旧日本軍は米国統治下のフィリピンへ進攻し、42年1月にマニラを占領。米軍は44年10月、レイテ島に上陸、反攻に入った。同月のレイテ沖海戦で旧日本海軍の連合艦隊は事実上壊滅し、海上補給がより難しくなったため、日本軍兵士は飢えとの戦いも強いられた。厚生労働省によると、フィリピン戦での旧日本軍の死者は約51万8000人。うち約36万9000柱の遺骨が送還されていない。45年2~3月のマニラ市街戦では約10万人の市民が巻き込まれて落命するなど、約110万人のフィリピン人が死亡した。

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