<つなぐ 戦後75年>平和な世界 続けないと 旧満州で少年時代 相模原の武内花治さん(89)

2020年8月6日 07時38分

旧満州の地図を前に、当時の生活を振り返る武内さん=いずれも相模原市南区で

 戦時中に満蒙(まんもう)開拓団の一員として旧満州(現中国東北部)で少年時代を過ごした、相模原市南区麻溝台の武内花治(はなじ)さん(89)。戦後75年たった今も「過酷な人生だった。思い出したくない場所」と涙ながらに話し、戦争のない世界を願い続けている。 (丸山耀平)
 武内さんは一九三一年、旧串川村青山(現相模原市緑区)で生まれ、四二年三月に開拓団の一つ「青根開拓団」として同地域の約三十世帯とともに、家族といとこ計七人で旧満州に渡った。学校に通うことなく、父らと農作業に従事していたという。
 移住から三年後の四五年八月九日、ソ連が日本に宣戦布告し、旧満州に侵攻した。武内さん一家は、ソ連軍の偵察機の空襲により、村を出て山へ一時避難した。その後、山から別の村に避難する際、武内さんは別の家族について行ってしまい、父らとはぐれてしまった。別の村に着いた途端、現地の治安当局に捕まった。
 それから一年間は家族と会えない生活が始まった。街の文書を配ったり、ふん尿を廃棄したりする仕事をしながら、与えられた宿舎で暮らした。夜は身に染みる寒さで、麻袋にくるまりながら寝た。一緒に生活していた人は凍傷や飢えで何人も死んでいった。「まさかこんな仕打ちになるなんて。だまされた」と目頭を押さえる。
 四六年十月、日本への帰国命令が出て、列車に乗り、中継地の街で家族と偶然再会した。「生きているかどうかも分からなかったから、何も言えないくらいうれしかった」
 十五歳で帰国。開拓団の団員とともに、現在の麻溝台に住みだした。この辺りは敗戦まで陸軍士官学校練兵場として使われた場所。地元の広場には「開拓記念碑」が建てられ、団員たちの思いが刻まれている。

地元の広場に建てられた開拓団の記念碑

 戦後七十五年。武内さんは「平和な世界を続けないといけない。私たちのような思いをする人をこれから先、出してはいけない」と心から願っている。
<満蒙開拓団> 国策として旧満州と内モンゴルに1932年から終戦までに約27万人が入植した。疲弊した農村人口を減らし、北方警備の盾とする目的もあったとされる。45年8月9日に始まったソ連軍の侵攻、敗戦による混乱の中で約8万人が死亡。多くの中国残留孤児を生んだ。

◆戦争繰り返さない 千羽鶴、今年も 二宮町「ガラスのうさぎ像」

ガラスのうさぎ像に並んで飾られた千羽鶴=二宮町で

 JR二宮駅南口に立つ二宮町の平和と友情のシンボル「ガラスのうさぎ像」の傍らに五日、町内外から寄せられた約四万羽の千羽鶴が町民や村田邦子町長らの手で飾られた。
 像は、児童文学作家の高木敏子さんが自らの体験をつづった著書「ガラスのうさぎ」に由来する。高木さんは終戦間際の一九四五年八月五日、駅周辺を襲った米軍機の機銃掃射により、眼前で父親を亡くした。
 八一年、二度と戦争を繰り返してはいけないと平和を願う町民らの寄付で像は建てられた。そして二〇一〇年から町民有志らの呼び掛けで千羽鶴が飾られるようになった。
 町によると、今年は新型コロナウイルス感染症の影響で小学校や中学校の臨時休校が長引いたことなどもあり、集まった鶴の数は例年より少なかった。毎夏恒例の「ガラスのうさぎ像平和と友情のつどい」も中止となった。
 それでも町内外の個人や横浜市や藤沢市の小学校などから、丁寧に折られた鶴が届いた。村田町長は飾り付けの参加者に「平和を祈る気持ちをしっかり受け止めてつなげていきたい」とあいさつした。
 吉成泰子さん(86)は、十年前の初回から糸を通して鶴をつなぐ作業に精を出してきた。二宮小学校六年の夏、終戦を迎えた。戦時下の体験を記録に残す活動に取り組み、母校の児童相手にも話してきた。
 「戦争は良くないと伝えたい。こんなのどかな町でも空襲があり、亡くなられた方がいる。子どもたちにも知っておいてほしい」と語った。鶴は十四日まで飾られる。 (吉岡潤)

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