贈与の系譜学 湯浅博雄著

2020年8月9日 07時00分

◆何かを与えるだけでなく

[評]近内悠太(教育者・哲学研究者)

 街に立つと目に映るすべてが有用性に満ちていることに気づく。アスファルトは自動車を効率よく走らせるために、ビルは人間が快適に過ごすためにある。都市に存在する事物は、功利的な目的や生産性を持っている。何の役にも立たないものは排除され、すべては費用対効果の観点からそこに存在することが認められる。その意味において、都市は「エコノミー」に覆い尽くされていると言える。
 贈与はそんなエコノミーと対立する。贈与とは一般に、見返りを求めずに何かを与えることを指す。しかし本書の定義はもっとラディカルだ。「譲ることや手放すことなど考えられない何か、最も貴重な何かを手放し、放棄するという仕方で贈ること」である、と。
 本書には「供犠(サクリファイス)」の分析が登場する。祝祭において、遊牧民は一頭の羊を犠牲にし、農耕民は稲や小麦を供物として捧(ささ)げ、非生産的かつ無益な形で富を蕩尽(とうじん)する。なぜ羊を破壊するのか? それは人間にとって有益であるモノや道具になってしまった羊、<事物化した羊>を破壊することによって「文化以前の根源的自然(フュシス)、人間が人間化する以前の自然」としての羊に戻すためだという。羊という生命存在は人間の生活とは一切関係なく、ただそこに居る。しかしエコノミーが羊を生命から遠く離れたものへと変えてしまう。それを元に戻すために祝祭において羊は破壊されるのだ。
 あるいは、他者を招き入れるという「歓待」について。恋愛や子育てを考えてみれば分かる。その相手は決して費用対効果で語られるべき他者ではない。また、「歓待することは、他者を、私が理解できる他者に変えること」でもない。そうではなく、「未知な、異邦的な何かを秘めている他者」を迎えるために、私が変わってしまうこと、常識や価値観、信条といった「私の固有性、個性、特異な同一性をなす」ものを破壊し、断念するという、贈与の契機がここにはある。贈与には、破壊という苛烈な側面があることを改めて教えてもらった。
(講談社選書メチエ・1815円)
1947年生まれ。東京大名誉教授、フランス文学・思想。著書『バタイユ 消尽』など。

◆もう1冊

 岩野卓司著『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』(青土社)

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