<首都残景>(15)市ケ谷記念館 刻まれた刀傷 三島の叫び
2020年8月9日 07時10分
まるで時空の交差点のように濃密な歴史が刻まれた空間があるものだ。
東京・市谷の防衛省の敷地内にある市ケ谷記念館。
二階の旧陸軍大臣室の重厚な木製扉に三つの刀傷が残っていた。ちょうど五十年前の一九七〇年十一月二十五日、作家の三島由紀夫は民兵組織「楯の会」の学生メンバーら四人と共に、当時の陸上自衛隊益田兼利東部方面総監を人質に取り、この部屋に立てこもった。警護の武官と格闘した際に、三島の愛刀の関の孫六がつけた傷だという。
「戦後最大の知性」と称賛された作家は、バルコニーに出て自衛官に「このままでは自衛隊は米国の軍隊になる。なぜ立ち上がらないのか」と訴えた。だが、激しい怒号でかき消され、直後に割腹自殺した。
市ケ谷記念館には、四六年に開廷した極東国際軍事裁判の舞台となった元陸軍士官学校大講堂(1号館大講堂)も保存されている。第二次大戦における日本の戦争犯罪を追及した同裁判では、東条英機元首相ら戦前の指導者に死刑判決が下された。三島が憂いた日本の戦後体制の出発点といえる。
正面には天皇が座る玉座がある。壁や床が曲面で構成されているのは、玉座をより遠く、よりありがたく見せるためだという。そういえば、戦時中、ここは大本営本部であったのだ。
六四年の東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得し、六八年に「疲れ果てました」と遺書を残し、自死した円谷幸吉(自衛隊体育学校所属)の葬儀が営まれたのも、この大講堂だった。
当時、三島は、新聞に寄せた文章で、賛否が分かれた円谷の死を「美しい自尊心による自殺」と評価し、「ノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりは許し難い」と述べている。
歴史の証人ともいえる建物は、一九九四年に防衛庁(当時)の移転にともない取り壊しの可能性があったが、保存すべきだと市民運動が起き、国会決議により記念館として再現された。
事前に電話予約で見学可。問い合わせは電03(3268)3111(内線21904)。
文・坂本充孝/写真・戸上航一
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