<再発見!伊豆学講座>狩野川治水運動 増水被害、大正から嘆願

2020年8月9日 07時54分

大正9年の洪水で亡くなった人たちを弔う殉難者供養塔

 令和元年の台風19号は、予想されたコースが、昭和三十三年に大きな被害をもたらした狩野川台風によく似ていると報道された。雨量は狩野川台風を上回り、県内を含め全国各地に大きな被害をもたらしたが、狩野川台風の時と比較して崖崩れ、狩野川の増水による被害は少なかった。
 当時といくつか違う点がある。一つは河川敷が広まり堤防が強固になったことである。二つ目は、昭和三十三年当時は戦後復興で、山の木の伐採が進み、山に保水力がなかったため、各所で崖崩れが発生。それが濁流となって流れ下ったという点である。その教訓を生かして建設された狩野川放水路が令和元年の19号台風で威力を発揮した。
 幕末の韮山代官江川英龍は、狩野川放水路計画を考えたといい、同時に治水の考え方も示したとされる。残念だが、筆者の関係する江川文庫でいまだそのような史料は見たことがない。今後見つけることができることを期待したい。
 平成十三年函南町教育委員会で開かれた加藤譲二氏の講演「身近な土砂災害、洪水を考える−明日に備えて−」によると、英龍は七項目を指示したという。
 (1)蛇行改修の禁止(2)倒木を山の斜面に沿った向きにする(3)修善寺橋上流はすべてつり橋(4)大仁から下は(洪水時に水面下になり流木がぶつからない)潜り橋(5)(洪水時に浅くなり被害がひどくなる、水勢が衰えて土砂の運搬がされにくいため)川幅広げ禁止(6)(全体的に水をあふれさせるため)堤防の盛り土、除土の禁止重罪(7)(流木が堤防にぶつからないようにし、やぶにかかったごみ、流木を後で燃やして肥料になるよう)堤防内側はさお竹やぶ、外側はささ竹やぶにする、などだ。
 時代を経て、明治四十(一九〇七)年十一月、韮山村の鎮(しずめ)正美は同志を募り狩野川治水組合を設立した。大正二(一九一三)年には「狩野川治水研究会」を発足させ、治水を進めようと動きだした。同六、七年に狩野川で増水被害、同八年七月二日にも被害があり、狩野川沿岸の被害民が、改修工事費計上嘆願のため田方郡役所に押し掛けた。
 大正九年八月二十二日、韮山村原木の成願寺で狩野川治水速成の沿岸村民大会が開かれている。同年九月三十日、風水害で支流の深沢川水系で田京を中心に大被害が発生した。そこで翌十年二月二日、韮山村ほか六カ村で狩野川治水組合を結成、管理者に韮山村長山田実を委任した。
 同年五月、狩野川改修同盟会規約を制定し、その翌十一年三月二十六日、狩野川改修請願代表が上京して高橋是清首相らに面会した。さらに改修速成のため同年四月三日、沿岸住民三千余人が立憲政友会に入党することになった。
 このように進めた運動であるが、田方・駿東郡水産組合長ら漁業関係者が大正十二年四月二十八日、狩野川改修について県庁へ反対請願を行った。こうした動きもあり、改修はなかなか前ヘ進まなかった。(橋本敬之・伊豆学研究会理事長)

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