自分の命のために引き金、戦争で人間は汚くなる… 元陸軍歩兵 島田兼之さん(99)

2020年8月11日 06時00分
<戦後75年 20代記者が受け継ぐ戦争>前橋支局 市川勘太郎(27)

◆教え子に送られ戦場に

 日中戦争が泥沼化していた1941(昭和16)年、小学校教師だった島田兼之さん(99)は召集令状を受け、教え子に見送られながら前橋駅を発った。

骨や遺留品について記した名簿について、市川勘太郎記者(左)に説明する島田兼之さん=前橋市で

 「『行ってきます』ではなく、『行きます』と言って子どもたちと別れたんだ」。その言葉に、「生きて帰ることはない」という思いを込めたという。
 記者4年目の私にとって初めてとなる戦争体験者の取材。前橋市の自宅で、島田さんは元教師らしく、語り掛ける口調で丁寧に話してくれた。大正生まれの方の取材も初めてだ。

◆冬は零下20度

 島田さんが陸軍の歩兵として、最初に派遣されたのは旧満州(中国東北部)。当時のソ連国境を警備し、たばこを吸うソ連兵が見える距離で立ち続けた。「冬は零下20度の寒さで、足に凍傷を負ってね」。戦況が悪化した44年、極寒の地から漢口市(現武漢市)に移り、中国軍との戦闘を体験する。丘を挟んで見えない敵と約1時間、銃撃戦を繰り広げた。

出征直前の島田兼之さん

 「周りの兵士の死にざまを見て、撃たれまいと無我夢中で戦った。近くに迫撃砲が着弾して、タコツボ(塹壕ざんごう)に入ったら左腕の軍服は裂け、傷から肉が見えていた」
 死の恐怖がよぎったその時、塹壕の出口に向かって一生懸命登っていく1匹のアリを見た。「生きないといけない」という気持ちが湧き起こり、自力で内務班に戻って治療を受けた。
 
 私は生々しい戦場の体験に聞き入った。ただ、想像もできない世界を、遠くにも感じた。そんな私に、島田さんは「戦争をすると、人間は汚くなる」とつぶやいた。

◆遺品を送る作業

 「人を撃つなんて残酷なことはあってはならない。なのに、戦場では何も考えられなくなる。自分の命のために引き金を引かざるを得ない」
 若き教員だった島田さんは1枚の召集令状で兵士に変わり、「お国のため」に見も知らぬ人と銃撃戦をした。普通の人が、殺し合う。それが戦争なんだ。鉄帽をかぶり、何も考えずに小銃の引き金を引く自分の姿を思い浮かべてみて、戦争の手触りを少し感じた。
 
 部隊はその後、台湾へ移る。米軍の艦砲射撃や空襲、マラリアで仲間たちが次々と死んでいく。島田さんは戦病死者の名簿を作り、遺品を日本へ送る任務を担当した。「船で運ぶのに限りがあるから、遺体を焼いて、歯や喉仏を封筒に入れるだけ。約500体を積み込んだが、米軍に撃沈された船もあった」

◆89歳から体験語る

 終戦後は再び、小学校の教師に。「戦争は惨めなものだから」と家族にも体験は話さなかった。89歳の時、小学校の校長から再三の依頼を受けて講演をして以来、体験を口にするようになった。「亡くなった人たちに思いを馳せ、平和を続けるにはどうすればいいか、常に考えないといけない」と力を込める。
 島田さんの左腕には、今も生々しい傷痕が刻まれている。凍傷を負った右足の指は、爪が剝がれる後遺症が残っている。75年以上前の戦争と、現在はつながっているのだ。
 この取材で、戦争の悲惨さを分かったとは、とても言えない。ただ、「人間が汚く」なるような時代が二度と来てはならないと痛感した。「平和を続けるため、常に考えること」。島田さんのその思いを受け継いでいくことはできる。
     ◇
 戦後75年。年月の隔たりを示すその数字が増えるたびに、戦争を体験した人に取材できる機会は減っていく。2003年から続くこのシリーズで、若い記者たちが今しかできない取材をし、戦争について考えた

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