<戦火の記憶 戦後75年 1945→2020> 軍用橋、復興を支え 技術者2人、戦後に交錯

2020年8月11日 07時15分

JKTトラス橋を利用して架橋された小巻沢林道橋。三角形のトラスの状況がよく分かる=北海道夕張市で、奥山道紀さん撮影

 橋にも戦争や軍が影を落とした。戦前・戦後、橋造りに情熱を傾けた東京ゆかりの橋梁(きょうりょう)技術者2人を通して、「戦争と橋」について考えてみたい。2人には戦後、意外な接点があった。
 北海道南西部のシューパロ湖(夕張市)に架かる小巻沢林道橋の写真。一帯の鉄道遺構などを調査する奥山道紀さん(61)が先月二十一日に撮影したものだ。林道は既に廃道になり、橋周辺にはやぶが生い茂っていたが、夕張川の河原から最近の姿を収めた。
 この橋は、旧陸軍が開発した「JKTトラス橋」という規格の軍用橋。国内に現存する貴重な一基だ。一帯は森林地帯。戦後、木材を搬出する鉄道や林道、橋が整備された。物資不足のため、戦地での仮設橋として製作されたが、使われず終戦を迎えたJKT橋が利用された。

北区の新河岸川に架かっていた中の橋。かつての軍用橋(KKTトラス橋)を利用している=紅林章央さん提供

 都内にも平成の初めごろまでJKT橋の前のタイプのKKT橋があった。北区の新河岸川に架橋され、中の橋と呼ばれた。陸軍の演習が近くで行われた際に架橋されたといわれ、工兵橋とも呼ばれた。
 JKT、KKT橋など一連の軍用橋は、東京市職員を経て橋梁メーカー、横河橋梁製作所の技術者になった曽川正之さん(一九八六年に八十八歳で死去)が開発、設計した。JKT橋は映画「戦場にかける橋」で知られるタイ・クワイ川のメクロン橋にも使われた。曽川さんは戦後、長崎県の西海橋など多くの著名な橋を設計した。
 もう一人は旧内務省復興局時代に隅田川の清洲橋を設計した鈴木清一さん(八六年に八十六歳で死去)。今年三月三十一日付のこの欄で、鈴木さんが残した多数の橋の写真を収めたアルバムが見つかったことを紹介した。
 鈴木さんは関東大震災の復興に携わった後、同省土木局で全国の橋梁建設を指導。その際、軍の壁を感じた。

鈴木清一氏が1937年に完成させた関門海峡の橋の図面=日本道路協会の会報「道路」から

 三三(昭和八)年、下関(山口県)と門司(北九州市)を結ぶ連絡道の調査を担当。関門海峡をまたぐ橋か、海底トンネルか、二つのプランが上がり、鈴木さんに双方の検討が託された。二年後、トンネルに決まるが、背景には旧陸軍の反対があった。
 関門橋がようやく開通したのは戦後の一九七三年十一月。鈴木さんは同年九月号の日本道路協会の会報に寄稿し、「有事の際、橋梁は爆撃の目標となる」「軍部、特に陸軍から猛烈な反対があった」と振り返っている。上司から「後日必ず実現する時があるから」と詳細設計を指示され、鈴木さんは図面を残した。図面には「陸軍用地測量不能」との表記もあり、軍部の影響下にあったことがうかがえる。幻の関門橋の設置場所は現在の橋とほぼ同じだ。
 鈴木さんは戦後間もなく、岐阜県土木部長に赴任。着任後、最初に手掛けた長良川の忠節(ちゅうせつ)橋の工事に、横河橋梁の担当者として曽川さんが参加。同県高山市でも曽川さんが戦前設計した軍用橋が四八年三月に架橋されている。二人に面識があったかは不明だが、岐阜の橋で二人の人生が交わった。
 軍用橋は兵器という悲しい使命を負ったが、戦後の物不足の時代、北海道や岐阜県、栃木県、宮崎県など各地で架橋され、復興の一翼を担った。
 都道路建設部橋梁構造専門課長時代に鈴木さんのアルバムを見つけた橋のスペシャリスト紅林章央さん(60)は「曽川さんが軍用橋で開発した溶接などの橋梁技術は戦後の日本で鋼鉄の橋の礎になった」と評し、「二人はそれぞれ、橋を通して戦後復興に貢献した。岐阜での接点は不思議な縁」と語る。
 文・加藤行平
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