100歳元英兵が語る ジャングルに散った親友<死の鉄道>(1)
2020年8月12日 06時00分
◆はだしにふんどし一枚、飢えと暴力と病魔の果てに…
「元英陸軍第125対戦車砲兵連隊で、私が最後の1人だ」。レン・ギブソンは100年間、英北東部サンダーランドで暮らす。捕虜としてタイのジャングルにいた22歳からの3年半を除いて。
「テンコ」「バンゴ」「ヤスメ」。日本兵の絶叫が耳にこびり付いている。はだしにふんどし1枚で、
マラリアで高熱が出ても休めず、水を飲めば殴られた。サソリに刺されて死線をさまよい、コレラの発生で1週間に90人が死んだ。「湿地帯では歩くだけでヒルが脚をはい上がった。日本兵の車が泥にはまると、夜中でも起こされ、漆黒の闇の中、泥をかぶりながら車を押した」
飢えと暴力と病が支配した奴隷のような日々。仲間の8割が病に伏せ、木箱と電話線で作ったギターと歌で励ました。音楽と親友ウィルフが心の支えだった。「彼は同い年で家も近所。兄弟同然で育ち、ずっと同じ部隊にいた」
◆8割が病に倒れ、3分の1が命を落とした
終戦間際、やせこけ、すべての骨を浮かび上がらせるウィルフの脚が、熱帯性潰瘍にむしばまれた。潰瘍は日に日に肥大し、肉を腐らせた。ウィルフは泣いていた。「レン、医者がぼくの脚を切ることになった」。レンも泣いた。
翌日、粗末な小屋の中で、ウィルフの脚は切断された。だが、壊疽 はすでに広範で、手遅れだった。彼は小さな十字架を手に、最期の息でレンに言い残した。「これを母さんに渡して」
第125連隊の約3分の1、198人がジャングルで命を落とした。
帰国し、マラリアの治療中に看護師だったルビーと出会い結婚。念願の音楽教師となった。戦後50年ごろ、6人の孫のため、捕虜時代を語り始めた。「日本人を悪く言ったことは1度もない。あれは戦争だった。形を変えた同様のことが多くの場所で起きていた」
◆「日本人を悪く言ったことはない。ただ、知ってほしい」
ジャングルで、日本兵が上官に殴られ、蹴られる姿を何度も見た。「彼らも命令に従わなければ暴力を受けた。あなたの祖父が戦場にいたとしても、私はあなたを責めたりしない」
ただ、何があったのか、知ってほしいと願う。「歴史上、英国人もひどい仕打ちをしてきた。だから、日本人にも知ってほしい。私に日本語が話せたら、東京に行って子どもたちに語ることができたのに。日本のすべての子どもたちに、ここに来て、私の話を聞いてほしい」(敬称略、サンダーランドで、沢田千秋)
◇
「枕木1本、死者1人」と言われた「死の鉄道」建設に、英兵は連合軍最多の約3万人が従事し、約7000人が死亡した。戦勝に沸く母国で、その悲惨さゆえに口止めされた元捕虜たちは「忘れられた軍隊」となった。戦後75年、脳裏に深く刻まれた記憶をたどり、100歳となった彼らのメッセージを紡ぐ。
「枕木1本、死者1人」と言われた「死の鉄道」建設に、英兵は連合軍最多の約3万人が従事し、約7000人が死亡した。戦勝に沸く母国で、その悲惨さゆえに口止めされた元捕虜たちは「忘れられた軍隊」となった。戦後75年、脳裏に深く刻まれた記憶をたどり、100歳となった彼らのメッセージを紡ぐ。
◆泰緬鉄道 第2次世界大戦中、同盟国のタイからビルマ(現ミャンマー)戦線への物資輸送やインパール作戦の後方支援のため日本軍が建設。
1942年6月に着工、全長415キロの工事に英、豪、オランダ軍の捕虜約6万2000人が従事した。突貫工事による過酷な労働と疫病、栄養失調により、完成までの1年余りで捕虜約1万2400人が死亡。アジア人労働者も6~8万人が犠牲になった。現在はタイ側の130キロのみが残る。クワイ川鉄橋は映画「戦場にかける橋」の舞台になった。
1942年6月に着工、全長415キロの工事に英、豪、オランダ軍の捕虜約6万2000人が従事した。突貫工事による過酷な労働と疫病、栄養失調により、完成までの1年余りで捕虜約1万2400人が死亡。アジア人労働者も6~8万人が犠牲になった。現在はタイ側の130キロのみが残る。クワイ川鉄橋は映画「戦場にかける橋」の舞台になった。
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