生ける骸骨の集団、腐敗臭にまみれた病人小屋<死の鉄道>(2)

2020年8月13日 05時50分

「日本人は私たちを動物のように扱った」と振り返ったジャック・ジェニングス。捕虜として生き延び、エリザベス女王から届いた100歳の誕生日メッセージは大きな誇りだ=いずれも英トーキーで、沢田千秋撮影

 「鉄条網に刺さった中国人の首をいくつも見た。あれは、私たちへの見せしめだった」。1942年2月、日本軍が占領したシンガポールの市街地。101歳のジャック・ジェニングスは今も、首から滴り落ちる血を覚えている。
 「よりよい食事と病院がある」と、タイに連行され、泰緬たいめん鉄道建設工事を知る。毎食、薄いかゆと水のようなシチュー。赤痢、マラリアを患いながら、土を盛り、踏み固め、土手を造った。硬い竹のベッドで、蚊とシラミが眠りを妨げた。

捕虜収容所から英国へ送られたジャック・ジェニングスの捕虜郵便(右下)と、終戦直後、連合軍が捕虜に向けて上空からまいた2枚のビラ。「日本は降伏した、戦争は終わった」「元気を出せ、すぐに行く」と呼び掛けている

 23歳のジャックは生き残るため、故郷を忘れようと心に決める。家族も幼なじみの婚約者メアリーも。「私の家と人生はここだけだと、自分に言い聞かせた。そうすればすべてがましに思えた」

捕虜時代にジャングルで手作りしたチェスの駒を、75年経った今も大切にとっている

 捕虜になり1年がたつころ、左のふくらはぎに熱帯性潰瘍が現れ、クワイ川鉄橋に近い病人小屋に入った。「生ける骸骨の集団がいた。全員の潰瘍が悪臭を放っていた」。洋ナシのようにふくらんだ腐肉を、激痛に耐えながらスプーンでこそぐ。肉を求めハエが止まりウジがわいた。隣にいた21歳の豪兵の脚には複数の潰瘍があった。「彼は次第にすべての興味を失い、ある日、死んでいた」
 麻酔はないと覚悟の上で、皮膚移植手術を受けた。英軍医が太ももの皮膚をピンセットでつまみ上げ、豆粒大に切り、潰瘍に移植。25回繰り返した。「すべて、この目で見ていた」
 完成した鉄道で、ビルマ(現ミャンマー)から日本の敗残兵が次々と送られてきていた。45年8月25日、空からビラが降ってきた。「日本軍は無条件降伏した。戦争は終わった」。助け出されたジャックの体重は38キロだった。

得意のハーモニカ演奏を披露するジャック・ジェニングス。自室は戦争時代を記録する書籍や新聞記事、手記であふれていた

 故郷の駅。4年間、心の中から追い出していた母とメアリーが、手を振り、走ってくるのが見えた。「2人は泣いていた。私は泣いてないよ。涙がにじんだだけ。うれしくて」
 メアリーは13年前に他界。家族は、落ち込んだジャックを心配し、英南西部の古い保養地トーキーへ居を構えた。「海からの澄んだ空気が長生きの秘訣」と、ジャックはほほ笑む。階下の日本人とは友人で、旅先で出会った日本の青年を自宅に招いたこともある。
 「日本人を恨んだり憎んだりはしない。彼らはやらなければならない仕事をした。ただ彼らが何をしようとも、私たちは生き延びなければならなかった」
 戦後50年、長女ヘイゼル(72)とシンガポール、タイへ巡礼の旅に出た後、ようやく何があったのかを家族に語り始めた。ヘイゼルは言う。「ここ数年は特に当時の話をしたがる。他のどのことよりも鮮明に覚えている」

英国を出発する前のジャック・ジェニングス=本人提供

 記憶だけではない。大きな窓から海を望む居間は、捕虜時代の思い出の品や資料で埋め尽くされていた。ジャックは戦友を思い、ハーモニカを吹きながら、ここで余生を過ごしている。
 「イチ、ニ、サン、シ…ジュウ」「ダミ(だめ)」「バガロウ(ばか野郎)」。殴られないために覚えた日本語を得意げに披露し、言った。「75年たとうが、忘れるなんてできない。私はあまりにも長い時間を、日本人と過ごしたのだから」(敬称略、英トーキーで、沢田千秋)

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