「戦争は人間の未来を奪う」 フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと

2020年8月14日 05時50分
 15日に日本は戦後75年を迎える。戦争により、310万人が命を落としたといわれ、国土は焦土と化したが、その体験を語れる人は高齢化が進み、少なくなってきている。
 後世に伝えるべき記憶が風化しつつある今、プロ野球中日で投手として活躍した杉下茂さん(94)は「人の未来を奪う戦争は、何があっても二度と起こしてはならない。あのときのことを言葉にして残しておくのが、生き残ったわれわれの役目でもある」と本紙のインタビューに応じた。
 杉下さんは1925(大正14)年東京生まれ。野球が大好きだった少年は帝京商(現帝京大高)を卒業後、中国に出征を命じられ、上海近郊の捕虜収容所に収容された経験を持つ。海軍に入営した兄・安佑(やすすけ)さんは特攻機に乗り、沖縄沖で亡くなった。終戦から四分の三半世紀。戦争に翻弄(ほうろう)された一人の野球少年の記憶に耳を傾けた。(聞き手=編集委員・谷野哲郎)

都内の自宅で自身の戦争体験について語る杉下茂さん

◆1925年―1941年 「軍事教練」と「配属将校」

―今年で戦後75年を迎えます。杉下さんは出征もしましたし、帰国後も苦労をされたと聞きました。今でも当時を思い出すことはありますか?
 「そうだね。何かの拍子に思い出すことはよくあるよ。あれから75年。長いようで短かった。戦争のことは思い出したくないけど、こういう機会に話すのは、生きているわれわれの使命かもしれない。そう思って今回、インタビューを引き受けました」
―ありがとうございます。では、順を追ってお聞きしたいと思います。杉下さんは1925年生まれ。20歳の時に終戦を迎えたと思いますが、まずは戦争前の様子を教えてください。
 「子どものころから、とにかく野球が大好きだった。東京神田の生まれだが、あのころ、東京ドームがある辺りは軍の工場跡地で原っぱでね。よく友達を誘っては草野球をやっていたよ。車も少なかったから道路でキャッチボールができた。のんびりしたものだった」
―雰囲気が変わってきたのはいつごろですか。学校はどんな感じだったのですか。
 「思い出すのは軍事教練のことだ。私は1939年から帝京商(現帝京大高)に通うのだが、授業で軍事教練という科目があった。配属将校といってね。全国の中等学校以上の学校に軍人さんが派遣され、生徒を教えていた。これが軍隊式で厳しくて、怖かったのを覚えている」
―全国に陸軍の練兵場が作られ、東京では代々木公園にあったと聞きました。軍事教練ではどんなことをしたのですか?
 「代々木だけじゃない。習志野や富士山の裾野にも練兵場があって、そこで学生は軍隊式の訓練を課せられた。背中に10キロの石を担いで休憩なしに富士山登山もさせられたこともあった。私は野球部だったが、あのころ、野球と言えば、敵性スポーツだったから、一部の配属将校からは目の敵にされていた」

左は厳しい軍事教練の様子。右は野球部だった帝京商時代の杉下さん(後列左から2人目)

―野球が敵国アメリカ発祥だからですね。敵性スポーツといえば、あのころ、高校野球の甲子園大会も日米関係の悪化で中止になりました。
 「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」

◆1942年-1943年 「幻の甲子園」

―そのときの思いは。
 「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」
―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。
 「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている」

左は杉下さん(前列左下)が参加した軟式野球チーム。右は神宮外苑での出陣学徒壮行会

―子どもたちはどうしていたのですか。スポーツはあきらめていたのですか?
 「いや、柔道や剣道は逆に推奨されていたし、野球だって、大人に見つからないように、隠れて早朝に練習したりしていた。意外にたくましかったよ(笑)。それに、軟式野球はまだ大会が残っていたからね。私が住んでいた東京市神田区(現東京都千代田区)でも大会があり、近所の人とチームをつくって参加していた。しかし、1943年は大人気だった東京六大学野球が中止になり、神宮外苑では出陣学徒壮行会が行われた。いわゆる学徒出陣だ。段々と暗い時代になっていった」

◆1943年-1945年 中国へ出征。上官から殴られた

―1941年12月に真珠湾攻撃で開戦した日本ですが、翌年6月にミッドウェー海戦で大敗を喫するなど、次第に戦局が厳しくなっていきました。
 「1943年の12月に帝京商を繰り上げで卒業し、翌44年の5月に徴兵検査を受けさせられた。私は眼鏡をかけていたから甲種合格ではなく、第一乙種合格。甲乙丙丁の評価だったから、上から2番目だよ。当時、甲種合格者はお祝いだといって赤飯を炊いていたな。それにしても、それまで甲種合格しか召集できなかったのに、この年から第一乙でもよしとされた。それまで連戦連勝と報じられてはいたが、不安を感じていたよ」
―杉下さんが戦地に赴いたのは、いつごろですか。
「宇都宮の陸軍部隊に入隊したのが1944年12月。中国に行ったのは翌45年の1月。博多から船で韓国の釜山に上陸し、列車に乗せられ、よくわからない場所に降ろされた」

左は戦時中の日本軍の行軍(イメージ)。右は杉下さん(右下)が戦地で取った唯一の写真

―不安でしたか。
 「10里行軍というのかな。1日に40キロくらい歩く。これがつらかった。10日ほど行軍し、最後は巣県(現安徽省巣湖市)の駐屯地に着いたが、休む間もなく、新兵訓練だ。私はここで初めて銃の実弾訓練を受けた。銃は重く、手ぬぐいを肩に挟んで撃つのだが、反動が大きく、よく肩が抜けたように感じることもあった。戦後、手りゅう弾を投げすぎて肩を壊した野球選手の話を聞いたが、私は銃も原因の一つだと思っている」
―軍隊は厳しかったですか。
 「厳しいなんてものじゃないよ。私は訓練で銃の命中率が悪かった。当たらなかったり、まごついたりすると、上官から殴られ、蹴飛ばされた。駐屯地では競争意識を高めるため、中隊同士で銃の対抗戦が行われていて、成績がよければいいが、負けでもしたら上官に何をされるか分からなかった」
―日本の様子は知っていたのですか。手紙のやりとりなどはなかったのですか。
 「あとから聞いたのだが、そのころ、日本近海の制海権は敵に奪われていたそうで、船が沈められて、郵便物は届かなかった。だから、ほとんど日本のことはわからなかった。私が軍隊で唯一受け取ったのは、岐阜の叔母から届いた兄の死を知らせる手紙だけだった」

◆1945年3月-9月 兄の死。そして捕虜収容所に

―確かお兄さんは3歳年上でした。どんな方でしたか。
 「兄の安佑は、優しくて、しっかりしていて、野球が上手な人だった。海軍に入っており、この年の3月21日に沖縄で戦死した。神雷部隊といってね。特攻専用の桜花という機体に乗り、米艦に突撃したとのことだ。2階級特進で少佐になったと書いてあったが、そんなことはどうでもよかった。小さいころからキャッチボールをしてくれた兄がいなくなったのが、悲しかった」

左は杉下さんの兄・安佑さん。右は米艦艇に特攻する日本の航空機

―杉下さん自身もそれから大変な苦労をしました。終戦はいつ、どのような形で知ったのですか。
 「8月11日に上海近くの貨物廠(しょう)で倉庫番をしていたとき、ある兵隊が『日本は戦争に負けた』と言い、倉庫から物資を持って逃げていった。『そんなことがあるものか』と言っているうちに、15日となり、玉音放送を聞いた。このままでは捕まってひどい目に遭わされると、しばらくして、呉淞(ウースン)という拠点に移動したのだが、どうも様子がおかしい。いきなり、中国兵に銃を突きつけられ、武装解除を命じられた。拠点は捕虜収容所に変わっていたんだ」
―怖い思いをしました。
 「一番怖かったのは、その後だ。市中引き回しというのかな。丸腰で上海の街を歩かされた。大八車を引かされてね。見せしめだよ。こちらはいつ殺されるかと生きた心地がしなかった」
―収容所での生活は想像がつきません。どのような感じだったのですか。
 「シベリアや南方の収容所とは違い、強制労働はなかった。元々、日本軍の拠点でもあるので食料もあった。そういう意味で私は幸運だった。だが、戦友は死んでいった。水だ。水道がなく、井戸からくみ上げた水を煮沸して飲むのだが、コップに入れると、3分の1ほど、沈殿物がたまる。私は上澄みの部分を少しだけ飲むようにしたが、我慢できずに生水を飲んだ人はおなかをこわして、亡くなっていった」

◆1945年10月-12月 赤い髪と収容場のベースボール

―栄養失調で亡くなったということですか。薬はなかったのですか。
 「そうだね。生水を飲んで下痢をしたら、それで終わり。隣に寝ている人が、日に日にやせ細っていく。知っているかい? 人は栄養失調で死ぬとき、髪の毛の色が赤くなるんだ。今の若い人みたいに赤っぽくなっていくと、死期が近い。おそらく、髪の色素が抜けていくのだと思うが、髪が赤くなった人と話すのは、本当につらかった」
―無理やり戦地に送られ、望まない捕虜生活。死が身近にある日々で、心のよりどころは何だったのですか。
 「スポーツだよ。あそこには日本人の捕虜が2000人ほどいたと思うが、みんな鬱屈(うっくつ)とした気持ちを持っていて、暴発寸前だった。実際に騒いで、中国兵に取り押さえられたこともある。このままでは本当の暴動に発展しかねない、スポーツならやってもいいぞと、野球大会が開かれることになったんだ」

中国の捕虜収容所では野球やバレーボールなどのスポーツが行われていた

―収容所で野球ですか。米国では日系2世が生き延びるためにプレーした「収容所のベースボール」という話があります。
 「中国の収容所でも野球が行われたところは多かったはずだ。試合は中隊対抗で競い合った。投手をやる人間がいないので私が務めたが、驚いた。学生時代に肩を痛めていたのだが、うそのように痛みがなくなっていた。手りゅう弾を投げる際に、遠心力を使って体全体で投げる癖がつき、それが奏功したのだろう。思い出したくない記憶だが、あれがなければ、私はプロ野球の投手にならなかったろう。人生とはわからないものだ」
―もう少し、収容所生活のスポーツのことを教えてください。
 「野球だけでなく、バレーボールやバスケットボールもやった。いつ死ぬかわからない、明日が見えない、つらい捕虜生活をスポーツが救ってくれた。スポーツは最後まであきらめずにプレーする。私たちも希望を捨てずに生きようと思ったんだ。結局、私は3カ月で帰国できたのだが、スポーツに助けられたといってもいい」

◆1946年-現在 ひもじいって言葉を知っているかい?

―帰国は1946年1月でした。引き揚げも大変苦労されたと聞きます。
 「船に乗って佐世保まで。そこから列車に揺られて東京に着いて、驚いたよ。空襲で焼き尽くされて、一面、何もないんだ。奇跡的に神田にあったわが家は焼け残っていた。家では母が疎開もせず、残っていた。母と再会できたときの気持ちは、一生忘れることはないと思う」
―無事に帰ってこられて、安心できましたか。
 「戦争の怖いところは、終戦が本当の終わりではないところだ。戦後はとにかく、食べる物がないんだ。『ひもじい』という言葉を知っているかい。いつもおなかをすかせていた。日本中がそうだった」

左は焼け野原になった東京。右は買い出しのため、列車に乗る人たち。食料を手に入れるのは大変だった

―今は本当の意味で「ひもじさ」というのは経験していない人が多いと思います。
 「例えば、昼食は小麦粉を水で溶いて、フライパンで焼く。それに塩を振って食べた。具のないクレープみたいなもので、おなかいっぱいになることはなかった。夕飯はおかゆや重湯が少しだけ。『いただきます』と頭を下げて、丼と一緒に頭を上げたときにはもう『ごちそうさま』と、おなかの中に入っていた。1週間、グリーンピースの缶詰だけというときもあった。人間、食べるものがあるだけで幸せなことだと思う」
―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。
 「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています」

沖縄県糸満市の平和祈念公園で手を合わせる杉下さん。「平和の礎」には兄・安佑さんの名が刻まれている

◆編集後記 「大人の使命」

 プロ野球中日の春季キャンプは沖縄で行われる。毎年のように特別コーチとして参加してきた杉下さんが時間をつくって訪れる場所がある。糸満市の平和祈念公園。そこにある「平和の礎(いしじ)」に手を合わせるためだ。
 沖縄戦没者約24万人の名前が刻まれた「平和の礎」。そこに兄・安佑さんの名前を見つけることができる。「沖縄で特攻した人は遺骨がない。だから、ここに慰霊に来るんだ」と杉下さんは寂しそうに言った。
 現在94歳の杉下さんにはお孫さんが6人おり、ひ孫も年を追うごとに増えているという。「戦争では人の命と平和の大切さを痛感した。それと同時に思うのは、スポーツの素晴らしさだ。私が収容所の野球で助けられたように、人は好きなものがあるから、つらいことも乗り越えられる。戦争の記憶を伝え、子どもたちが大好きなものに打ち込める未来を作るのは、大人たちの使命じゃないかな」と語った。重い宿題を託された気がした。(谷野哲郎)
 すぎした・しげる 1925年、東京都生まれ。元プロ野球投手、監督。日本で初めてフォークボールを投げたことから「フォークの神様」と呼ばれた。49年に中日入り。54年にはエースとして、32勝12敗の成績で、球団初のリーグ優勝、日本一の立役者となった。プロ通算215勝123敗。85年に野球殿堂入り。

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