敵ではなかった日本兵「あの戦争に勝者はいない」<死の鉄道>(3)

2020年8月14日 05時55分

自身の捕虜登録証を記者に見せるバート・ウォーン=いずれも英サウサンプトンで、沢田千秋撮影

 開戦前夜、英国の若者は皆、意気揚々と軍人になった。「誰も、本当の戦争を知らなかった」。1939年、19歳で入隊したバート・ウォーンは振り返る。100歳の今も身長176センチの背筋を伸ばし、紳士然とたたずむ。

◆栄養不足に病…体重は76キロから41キロに

1939年、英軍に入隊したばかりのバート・ウォーン=本人提供

 英南部サウサンプトンの海で鍛えた船大工の腕を買われ、第6野戦工兵隊にいた。42年、捕虜として送られたのは、泰緬たいめん鉄道のタイ側起点から270キロ。ビルマ(現ミャンマー)国境付近のジャングル最奥部で、3人に1人という最多の死者を出した部隊だった。
 「いったい、私たちはどうやって鉄道なんか敷いたんだろう。ダイナマイトを使う以外は手作業。まるでピラミッドを造るように原始的だった」と自嘲する。
 戦況悪化に焦る日本兵が「スピードー」と叫ぶと、作業は夜明けから日没後も続いた。栄養不足で、黄熱病に赤痢、ベリベリ病(かっけ)を併発。76キロあった体重が41キロに減り、全線開通直前、野戦病院行きが決まった。

「ジャングルではこれ1枚で過ごしていた」と、自分で作ったふんどしを手にするバート・ウォーン


 タイ人船頭が繰るいかだでクワイ川を下流へ。途中の収容所で、ビルマを目指す日本兵と遭遇した。史上最も無謀と言われ、大半が死亡したインパール作戦に向かう部隊だった。「初めて日本兵と同じ食事をとり、人間らしい扱いを受けた。彼らは親切だった」

◆日本兵と一緒に映画「敵も味方もなかった」

 木々の間にキャンバスを張った屋外劇場で一緒に映画を見た。「私たちが前列で、日本兵が後列。地面にあぐらをかいて座った。日本の日常生活が映り、大勢が自転車に乗っていた」
 BGMに、母国の歌「デージー、デージー」が流れ、思わず口ずさんだ。誰も怒らなかった。「ジャングル奥地なら蹴られていた。あの時、私たちの間には敵も味方もなかった。日本も英国も一般兵は命令に従っていただけだった」

年半の捕虜生活でも手放さなかった財布と恋人や家族の写真。日本軍占領下のタイで流通した軍票も持ち帰った


 到着した野戦病院にも、十分な薬や器具はなく、竹製の針に電線用のゴム管をつないで輸血した。戦争末期まで生き延びた90人の仲間は、連合軍の誤爆で命を落とした。終戦を聞き、捕虜生活で初めて泣いた。
 45年12月、帰りを待っていた妻フリーダと結婚。捕虜時代を語り始めたのは93年の彼女の死後だ。

◆「みんな死を知らない。だからいまだに殺し合う」

 戦後75年、日本を許せるか。「私には分からない」。いまだ苦悩する。「一生懸命働いたのに、どうして十分な食事を与えてくれなかったのか。なぜ、あんな残酷な目に遭わなければならなかったのか」

英国で「忘れられた軍隊」と言われた極東捕虜の無念を刻むため、バート・ウォーンらが地元の教会に造った追悼碑


 戦勝国として歩んできた英国において、アジアのジャングルで惨めに死んでいった捕虜たちを知る人は多くない。バートは言う。「あの戦争に勝者はいない」と。「原爆がなければ、今私はここにいないだろう。しかし、原爆も罪なき多くの命を奪った。正当化できる戦争などない。みんな知らない。死や殺りくがどういうことか。だから、いまだに殺し合っている」
 2003年、地元の教会に追悼碑を造り、ジャングルに散った同郷の仲間の灰をまいた。たびたび訪れ「よう、みんな」と話し掛けている。今年の8月15日も最後の1人として、花を手向けにゆく。(敬称略、英サウサンプトンで、沢田千秋)

関連キーワード

PR情報