<わけあり記者がいく>「不要不急」と「遠隔」の盲点 人と会う奇跡 思い知る

2020年8月14日 07時23分

筆者の自宅にしつらえた両親の祭壇。父の好きだった酒とどら焼きは欠かさない

 コロナ禍のお盆。「不要不急」と郷里への帰省をやめた人も多いのでは。「わけあり記者」こと、私、三浦耕喜もこの夏、「不要不急」の意味を考えさせられた。
 今月、高校時代の同級生・K君が亡くなった。享年五十。突然死だった。毎年、盆や正月の帰省時期になると、何だかんだと集まっては飲んだ友人の一人だ。「そいじゃ、また今度!」。去りゆく背中に呼び掛けるのも、いつものこと。そう。私たちは、無邪気に信じていた。「来年もまた会える」と。
 だが、「来年」は来なかった。そして永遠に戻らない。
 コロナ禍の今年は状況が違っていた。「今年は我慢だ」「来年があるじゃないか。どうしても、今年会わねばならない理由もないし」ともともと集まる予定はなかった。折に触れ「不要不急」対策が求められる中、私たちは私たちなりに協力してきた。
 もちろん、万全の感染対策を取った上でのことだが、盆や正月に郷里の友人や家族、恩ある人、縁深い人に会うことは、「不要不急」なのだろうか。普通の年でも、会えるチャンスは限られる。五十歳を超えれば、急な葬祭の知らせに驚くことも。K君も漠然と再会を期すうち、あっけなく会えなくなってしまった。
 広辞苑を引くと、「不要不急」とは「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」とある。感染拡大が危惧される中、ウイルスを運ばないよう、旅行や遠出を取りやめるよう求められることも納得している。だが、「不要不急だから」という言い方には、違和感がぬぐえない。
 K君の死を通じ、私は人と会うことが、いかに多くの奇跡に満ちているのかを思い知らされた。人は、あまりにもあっけなく去っていく。
 オンラインでつながる遠隔システムもある。確かに非常に便利だ。だが、それだけでは分からないこともある。
 私の場合、それは「におい」だった。離れた郷里で、母が生前、父を世話する「老老介護」が始まったころ。母に認知症の症状が出始めた。お盆に帰省した私は、玄関から入るなり、すえたにおいに気付いた。たどると、台所にあった買い物袋と、いつ調理したのか分からない魚やおかゆの入った鍋が異臭を放っていた。母の認知症が相当進んでいることを目の当たりにし、真剣に介護に向き合う大きなきっかけとなった。
 人は都合の悪いことは隠したがる。「大丈夫」「心配しなくてもいい」。老いても親は子にそう言うものだ。言葉だけなら何とでも言える。だが、「実態」は、直接足を運ぶことでしか分からないものだ。介護や病気にかかわる場合、時期を逃すと取り返しの付かないこともある。
 一方、会うことは、相手にこちらの状況を知らせることにもなる。私がパーキンソン病にかかり、最も心を砕いたことは、絶対に母に病気を気付かれないようにすることだった。既に私の所作は注意深い人の目には奇異に映っていた。歩けば、歩幅は明らかに小さい。大股歩きを試みるが、ぎこちなく、不自然だ。
 当時既に、認知症が母の脳を深く侵し、理性的な判断はできなくなりつつあった。だが、その感性は、むしろ研ぎ澄まされていた。「パーキンソン」という言葉を母が知っていたかは定かではない。だが、その深刻さに思い至れば、恐らく母は十分おきに私の携帯に電話を入れ、自分のために費やす以上の精神的エネルギーを私に向けただろう。
 震える左足を見せてはならない。会う際は母のいる病院・施設に着く時間を見計らい、薬をのむ。ベッドから少し離れ、洗濯物が入ったバッグで足を隠す。帰りは「おお、案外重いや」とふらつくのをごまかした。「ありがとう」と言う母の言葉が痛かった。
<みうら・こうき> 1970年、岐阜県生まれ。92年、中日新聞社入社。政治部、ベルリン特派員などを経て現在、編集委員。42歳のとき過労で休職し、その後、両親が要介護に。自らも指定難病のパーキンソン病を発病した。事情を抱えながら働く「わけあり人材」を自称。父は2018年、母は19年に死去。

関連キーワード

PR情報

ライフの最新ニュース

記事一覧