<つなぐ 戦後75年>戦地で散った父と伯父 位牌の重み、今も

2020年8月15日 07時59分

戦争の犠牲になった伯父と父について語る嶋根紀之さん=常陸太田市久米町で

 太平洋戦争の終戦から十五日で七十五年を迎える。本県では一九三七(昭和十二)年に始まった日中戦争以降、五万八千人以上の県民が戦闘や空襲などの犠牲になっており、遺族にとっても特別な日。常陸太田市の嶋根紀之さん(79)は、大正から昭和にかけて極東ロシアや南太平洋の戦地に送り込まれた伯父と父を失った。一家の運命に影を落とした戦争の記憶をたどってもらった。(宮尾幹成)
 まだ三つか四つの子どもには、両手に抱えた位牌(いはい)がずっしりと重く感じられたという。
 父親の末吉さんは久米村(現・常陸太田市久米町)から出征し、太平洋戦争の激戦地の一つ、南太平洋のニューギニア戦線で命を落とした。三十三歳だった。

ニューギニア戦線で散った嶋根末吉さん(いずれも紀之さん提供)

 長男の紀之さんは、しばらくして近くの国民学校で村葬があったことを鮮明に覚えている。三人の姉がいたが、「長男だから」と、幼い紀之さんが父の位牌を持って学校まで歩くことになった。
 末吉さんは一九〇九(明治四十二)年生まれ。水戸に駐屯した陸軍歩兵第二連隊に入り、三九年の除隊後は本業の警察官を退職、郷土で農業に専念していた。だが四一年八月、再び召集され、水戸の歩兵第一〇二連隊の一員として満州(中国東北部)に向かう。前年秋に紀之さんを授かったばかりだった。
 召集から四カ月後、太平洋戦争が始まる。末吉さんは満州から広東、フィリピンのマニラ、ニューブリテン島を経由してニューギニア島へ。四三年六月、島東部のサラモア(サラマウア)で連合国軍の攻撃に倒れた。
 末吉さんの出征時、生後十カ月だった紀之さんには、父の記憶はほとんどない。亡くなったと知っても「悲しいという気持ちは湧かなかった」という。ただ、戦死公報を受け取って縁側で泣いていた母ハナさんと祖母かよさんの姿は、目に焼き付いている。
 後日届けられた遺骨箱には、遺体の身元確認のために送った写真だけがそのまま納められていた。
 一家が戦争で大黒柱を失ったのは、これが初めてではない。末吉さんの十歳上の兄、紀之さんの伯父に当たる伝衛門さんも、その二十三年前に極東ロシアに派兵され、殉難している。今からちょうど百年前の「尼港(にこう)事件」だ。

尼港事件で命を落とした嶋根伝衛門さん

 一九一七(大正六)年十一月にロシアで共産主義革命が起きると、革命の波及を恐れた日本や欧米列強は一八年八月からシベリア出兵に踏み切る。歩兵第二連隊にいた伝衛門さんの所属部隊にも出動の命が下った。
 部隊はウラジオストクに上陸し、中露国境を流れるアムール川(黒竜江)を下って河口の港湾都市・尼港(ニコラエフスク)へ。日本人居留民の保護に当たっていた二〇年三月、革命勢力のパルチザン(非正規軍)に襲撃される。伝衛門さんは二十歳ほどの若さで不帰の客となった。
 伝衛門さんが尼港から家族に宛ててつづり、送られることのなかった手紙が残っている。事件後、同郷の友人が遺品から見つけ、かよさんに届けたものだ。
 手紙には弟の末吉さんに向けた一節も。「学校と家で先生と父母の言うことをよく聞き、一生懸命勉強し、体を丈夫にして良い生徒になってほしい、春になったらロシアのめづらしい土産を買って帰るから」
 立て続けに長男と次男を失ったかよさんは「お国のために子どもをささげ、殺された。神はいないのか」と嘆いたという。紀之さんは後に、ハナさんからそう聞かされた。
 紀之さんの祖父に当たる、かよさんの夫は三九年に死去。ハナさんは戦後、女手ひとつで年老いたかよさんを支え、四人の子どもを育て上げた。
 長じて嶋根家の跡取りになった紀之さんは、母子家庭への差別が強い時代で就職に苦労したものの、日立製作所の工員に採用され、ようやく家計は安定。五十代半ばまで勤め、二人の子どもと三人の孫にも恵まれた。今は造園業や農業に精を出す日々だ。
 かつて伯父や父も暮らした先祖伝来の土地を守りながら、紀之さんは平和の尊さをかみしめている。
 「戦争というのは、どんなことがあってもやるべきじゃない。それだけの労力があるなら、国同士が仲良くやれるように力を尽くすことが大事だと思う」

◆家族へ 伝衛門さんの手紙 県立歴史館で公開中

 嶋根伝衛門さんが尼港で書いた家族への手紙は、県立歴史館(水戸市緑町二)の企画展「戦争と茨城」で展示中だ。九月二十二日まで。月曜休館。
 企画展では、伝衛門さんと末吉さんが所属した歩兵第二連隊や、末吉さんが所属した歩兵第一〇二連隊など、本県に駐屯した「郷土部隊」に焦点を当てている。
   ◇
<ニューギニアの戦い> 1942(昭和17)年3月から終戦まで、南太平洋・ニューギニア島での日本と連合国による一連の戦闘。日本軍は連合国軍の基地があった島東部の要衝ポートモレスビーの攻略を目指し、ラエとサラモア(サラマウア)への上陸を皮切りに戦線を拡大する。だが、マッカーサー大将率いる米軍やオーストラリア軍の圧倒的な戦力を前に制空海権を奪われ、補給は途絶、多くの将兵がマラリアなどの悪病や飢餓で絶命した。上陸した将兵約20万人のうち生還できたのは約2万人。本県からは水戸の陸軍歩兵第102、237連隊などの1万1000人あまりが出征し、8639人が命を落とした。
<尼港事件> ロシア革命を憂慮した日本や欧米列強によるシベリア出兵中の1920(大正9)年3〜5月、中露国境のアムール川(黒竜江)河口の尼港(ニコラエフスク)で、日本軍や日本人居留民が革命勢力のパルチザン(非正規軍)に虐殺された事件。革命から逃れてきたロシア人などを合わせ犠牲者は数千人(日本人は判明分だけで700人以上)に上る。国際的非難を浴びたロシアのソビエト政権は首謀者を処刑。日本軍の主力は水戸の陸軍歩兵第2連隊第11、12中隊だった。国内世論は激高し、野党は原敬内閣の責任を追及。田中義一陸相が辞職した。

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