<戦火の記憶 戦後75年 1945→2020>「5年後 証言者いなくなる」

2020年8月16日 06時58分

実際に使用されていた戦傷病者の義手などを展示

 太平洋戦争などで負傷した傷痍(しょうい)軍人(戦傷病者)とその家族が戦中・戦後に体験した労苦を伝えてきた史料館「しょうけい館」(千代田区九段南)が、戦後75年を迎え、岐路に立っている。生存する傷痍軍人らが年々少なくなり、生の証言を得にくくなっているためだ。

◆しょうけい館

 粗末な台の上で、負傷した兵士を別の兵士が押さえ付け、麻酔なしに手術を行う。旧軍の軍医の証言を基に再現した太平洋戦争末期の南方の野戦病院のジオラマだ。「戦線の拡大で兵站(へいたん)基地との距離が引き延ばされ、食料や医薬品の補給が困難になり、満足な治療さえできなくなった」と音声で説明が流れる。
 「戦争で傷ついた、生きている体験者の証言を伝えてきた」と同館学芸課長の木龍(きりゅう)克己さん(63)は強調する。二〇〇六年の開館以来、戦傷病者の証言を集め、DVD化し、館内で公開してきた。「戦傷病者の労苦を語り継ぐ」と題されたDVDは計百九十七タイトル。百八十七人の戦傷病者とその家族らの体験を収めている。

戦地で負傷時にかけていた眼鏡

 昭和三十年代に戦傷病者は約三十五万人いた。厚生労働省の福祉行政報告例によると、戦傷病者の手帳交付者は二〇〇〇年度に七万二千四百七十六人、一八年度には十分の一以下の五千五百九十人にまで減った。最近は同館を訪れる戦傷病者もほとんどないという。
 比例して証言者も減り、同館が最後に証言を得られたのは昨年十一月。DVDの証言者の多くも既に亡くなっているという。

しょうけい館で公開されている戦傷病者の証言ビデオ。手前は学芸課長の木龍克己さん

 同館によると、太平洋戦争に従軍した正規の兵士の平均年齢は今年で百歳前後に及び、少年兵でも九十歳を超えているという。統計上は存在するものの、高齢で寝たきりになり、聞き取り調査は事実上困難。戦傷病者の全国団体「日本傷痍軍人会」や傘下の団体が会員の高齢化で活動を停止したのも、新たな証言を得にくくなった一因だ。
 全国で証言者を訪ね歩いてきた木龍さんは「敗戦国日本の戦傷病者は戦後、大変苦しい思いをして生きてきた」と振り返り、「恐らく戦後八十年の五年後には傷痍軍人はいなくなっているだろう」と推測する。

南方の野戦病院を再現したジオラマ。左端では麻酔なしの手術を軍医が行っている=いずれも千代田区で

◆傷痍軍人をめぐる施策

 1937(昭和12)年に勃発した日中戦争で戦死傷者が激増。将来、米・英国との全面戦争を予想した軍部は、戦傷病者の処遇を誤ると「国民の軍隊への信頼感を損なう」「徴兵制に支障を来す」などの思惑から、社会復帰などの支援を積極的に行い、メディアでも盛んに報じられた。
 41年に始まった太平洋戦争で戦死傷者はさらに増大。戦局が悪化すると、戦傷病者を日本に送還できないほど軍部には余裕がなくなった。
 戦後の占領行政下では連合国軍総司令部(GHQ)の非軍事化政策が厳しく、恩給や鉄道利用の割引・無賃化など旧軍人に対する特権的取り扱いは廃止された。戦傷病者も厳しい生活を強いられ、生活苦から白衣姿に軍帽をかぶり街頭募金を行う者が続出した。
 52年、サンフランシスコ講和条約締結に伴い占領行政が終了すると、政府は旧軍人・軍属、遺族への恩給を復活。同年11月には日本傷痍軍人会が設立された(2013年11月解散)。同会は恩給復活にもかかわらず街頭募金が継続していることに「傷痍軍人として恥ずかしい行為」として中止を促し、徐々に消えていった。しかし昭和30、40年代には傷痍軍人を装った街頭募金も見られた。
 戦傷病者には軍属、準軍属も含む。1963年公布の戦傷病者特別援護法で手帳の交付を受けた人は療養手当や義眼や義手などの支給を受けられた。
<しょうけい館> 戦傷病者とその家族らの証言や資料を次世代に伝えるために設立された国立(厚生労働省所管)の博物館。館名の「しょうけい」には受け継ぎ語り継ぐという思いが込められている。入館無料、午前10時〜午後5時半、月曜日休館(祝日または振り替え休日の場合はその翌日)。最寄り駅は東京メトロ・都営地下鉄の九段下駅。電03(3234)7821。
 文・加藤行平/写真・市川和宏
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