「幸せなら手をたたこう」 坂本九さんが歌った曲の作詞秘話

2020年8月20日 06時00分
 故・坂本九さんが1964年(昭和34年)に歌ってヒットした「幸せなら手をたたこう」。この歌を作詞したのは、61年前にフィリピンを訪れた学生だった。旧日本軍による加害の歴史への贖罪の念と、「苦しみや悲しみを乗り越えて命を尊び、日本人を受け入れてくれた地元の人々に応えたい」との思いがきっかけだった。(畑間香織)

「幸せなら手をたたこう」の作詞秘話について語る木村利人さん=東京都千代田区で

 学生は、早稲田大名誉教授(バイオエシックス)の木村利人さん(86)=東京都千代田区。木村さんは、早大院生だった1959年4月から2カ月間、農村復興のボランティアとしてキリスト教青年会(YMCA)からフィリピン北部のルソン島ダグパン市に派遣された。「ぼくの本当の戦争体験の始まりだった」

◆「正義の戦い」は間違っていた

 終戦から14年。フィリピンでは根強い反日感情と戦争の傷痕が残っていた。刺すような視線、弾丸痕のある市庁舎、戦時中に旧日本軍が住民を集めて虐殺したと記された教会…。タガログ語で「日本人、死ね」と言われ、「バカヤロー」「キサマ」と言葉をかけられた。人に会うたびに「家族が日本兵に殺された」と聞かされ、黙るしかなかった。
 「戦争の被害者意識で凝り固まっていた」という木村さん。自分の無知を恥じ、罪悪感を覚えた。「アジアで正義の戦いをしていると教わっていたが、間違っていた。加害者だったと初めて知った」。天皇に命をささげ、殺すことが正しいとされていた旧日本軍にも思いを寄せ、「ぼくが殺していたかもしれない」という恐怖を抱いた。

◆「日本人を殺してやろう」は「間違っていた」と…

1959年、ボランティアの仲間と。左から2人目が木村利人さん=フィリピンで(本人提供)

 木村さんは、フィリピン人の同世代のボランティア仲間と、地域になかったトイレの設置や、子どもたちのためにバスケットボールコートの整備をした。朝と夜の礼拝で聖書を読み、平和について語り合った。戦後同市を訪れた初めての日本人として地元のラジオ局にも招待された。日本が二度と戦争をしないために新しい憲法を制定したことを語り、住民の警戒心を徐々に解いていった。
 滞在期間終盤のある夜、フィリピン人のボランティア仲間の一人が木村さんに言った。「日本人を殺してやろうと思っていたが、間違っていた。過去を許し、戦争をしない世界をつくろう」。木村さんは感極まり、手を取り合って涙した。
 その時に毎晩恒例の聖書の時間で仲間と読んだのが旧約聖書の詩編47編の「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」。フィリピンの人と友情を築けた喜びを表していると感じた。

◆民謡のメロディーと聖書から

 その翌日、小学校の校庭でフィリピンの子どもたちがいすを並べて手遊びをしながら歌っていた民謡のメロディーが耳に残った。帰途の貨物船で、その民謡に詞をつけた。聖書から「手をたたこう」の歌詞のヒントを得た。
 特にこだわったのが「態度でしめそう」の部分。「幸せなら態度でしめそうよ」の歌詞は、12番まですべてに登場する。日本人が行ったことを決して忘れないが、人間として尊重し、受け入れてくれたフィリピンの人々が「態度で示してくれた」と感じた。宿泊先の小学校に焼きバナナやコーヒー、魚を差し入れてくれ、誕生日会に招いてくれた。中には戦時中、旧日本軍に厳しく尋問を受けた人もおり、感謝の意を歌詞に込めた。

1959年、ボランティアの仲間と記念撮影する木村利人さん(後列左端)=フィリピンで(本人提供)

◆作詞した曲を、坂本九さんが

 帰国後、フィリピンでの経験を語り、仲間に歌を披露すると、歌声喫茶でも歌われるようになった。ある日、カーラジオから流れてきた歌を聴いて驚いた。自分が作詞した「幸せなら手をたたこう」を坂本九さんが歌っていた。
 
 坂本さんが所属していた事務所「マナセプロダクション」によると、歌声喫茶で歌を聴いた坂本さんの強い希望でレコードにしたという。発売時は作詞・作曲者不詳として記載されていたが、木村さんが作詞者だと名乗り出て、作詞者は木村さんとされた。
 「幸せなら手をたたこう」は、坂本さんが歌い、日本中に広まったとされる。現在では世界各国の言語でも歌われている。木村さんは「世界中に広まるとは考えてもみなかった。うれしい」と話す。
 木村さんは、1970年代後半、学問の枠を超え命に関わるあらゆる問題を考えるバイオエシックス(生命倫理)という分野を立ち上げた。人間の尊厳を守る社会を作ることでフィリピンの人に応えたいとの思いが支えだった。その後、「患者は本当のことを知る必要がある」と、患者が治療方針を選択するのに十分な説明をして同意を得るインフォームドコンセントの普及に尽力した。
 日々の生活で起きる差別や格差といった不正義に声を上げ「態度で示す」ことが大事だと木村さんは訴える。「声を上げて態度に示さないと、戦争の足音が聞こえてくる。日常で感じる『ちょっとおかしいな』という不正義への感覚を研ぎ澄まして命を大事にしてほしい」と話す。
 2013年1月、木村さんは半世紀ぶりにボランティアをしたダグパン市の小学校を訪れた。現地の児童と一緒に「幸せなら手をたたこう」を日本語とパンガシナン語で合唱した。木村さんは児童にこう呼び掛けた。「武器で戦うのではなく平和をつくるため、未来に向けて一緒に働こう」

太平洋戦争中のフィリピン 旧日本軍は太平洋戦争開戦後に米領のフィリピンに侵攻し、1942年1月にマニラを占領した。米軍は44年10月、レイテ島に上陸して反撃。45年2~3月にマニラで市街戦が繰り広げられ、旧日本軍による住民虐殺などで約10万人の市民が犠牲になったとされる。フィリピンでは旧日本軍が約52万人、フィリピン人が約111万人死亡したとされる。

 木村さんのフィリピンでの体験や、戦後進駐軍の将校と交流した話などは妻恵子さん(75)が執筆した本「キーフさん―ある少年の戦争と平和の物語[新版](叡知の海出版、アスパラ販売)」で紹介。英訳版もある。いずれも税込み1650円。インターネット通販のアマゾンで購入できる。

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