今も刻まれる被爆と差別の痛み 長崎被爆者の野田さん

2020年8月22日 05時50分

「点字盤」を使う野田守さん=7月21日、東京都杉並区で

 視覚障害のある子どもはどんな戦争体験をしたのか―。長崎で被爆し今も後遺症に苦しむ全盲の野田守さん(92)=東京都杉並区=は、無数のうめき声や人が焼ける悲惨なにおいをはっきり覚えている。だが、野田さんが戦時中にこうむったのは爆風や放射線による被害だけではない。障害があるために国家の戦力になれないと差別された痛みが今も胸に刻まれている。(中村真暁)

◆人が焼ける「におい」とうめき声

 1945年8月9日、17歳だった野田さんは空襲から逃れるために家族で避難する長崎市内の仮住まいの小屋で、1歳のおいと留守番をしていた。爆心地から0・7キロの距離だった。
 おいにアコーディオンを弾いてあげていたとき、左側から生ぬるい爆風が猛烈ないきおいで通り抜け、土ぼこりをかぶった。太陽の光が照りつけ、屋根が飛ばされたことが分かった。「ただごとじゃない」。小屋の裏にあった大きなヒノキがジジジジジと音を立てて燃えているのが分かった。
 おいと防空ずきん代わりの丹前(防寒用の上着)を抱えて逃げ出した。履物も履かず、無我夢中で坂を下った。感覚を頼りに幅2メートルの川にかかる幅40センチほどの橋を走り抜けると、「守さん、こっち」と近所の人から呼ばれて防空壕に飛び込んだ。「血がすごいぞ」と言われて足の傷に気づいた。飛び散ったガラスでけがをしたようだ。
 しばらくすると、畑にいた母親が野田さんの名前を呼びながらやってきた。顔や体にひどいやけどを負ったようだった。おいを背負った母と広場へ行くと、人が焼ける「悲惨なにおい」がたちこめ、「水をちょうだい」といった無数のうめき声が響いた。

◆弱いものが結局、いじめられた

原爆を投下されて破壊された長崎県立盲学校の校舎。当時は三菱長崎造船所に貸与されていた。

 野田さんは、4歳ごろから栄養不良で見えなくなった。両親が通学の道中を心配して自宅にとどまらせ、12歳になって長崎県立盲学校初等部に入学。当時は盲学校とろう学校が現在のように別々ではなく併設され、ろうの子どもたちとは意思疎通が図れず、よくけんかになったという。外を歩くと、親子連れから「悪いことをすると、あんなふうに見えなくなるよ」と差別的発言を受けることもあった。さらに、「子どもたちから『障害者なんて使えるか』といじめられた」。兵隊などになれず、役立たない存在だという意味だ。
 戦後は、親戚を頼って家族で東京都内に移り、はり・きゅうマッサージ師になった。視覚障害者の権利獲得のための活動にも取り組んできた。
 被爆後は体がだるく血便が出た。10分でも日に当たれば体が赤くはれるため、今も日傘は欠かせない。「戦争はまっぴらごめんだよ。弱い者が結局、いじめられた。どうすれば戦争が起きないか。皆で考えないと」

◆少ない障害者の戦争の記録

 障害者の戦争体験記録は少ない。昨年3月、野田さんら視覚障害者や聴覚障害者の被爆体験をまとめた「長崎・あの日を忘れない」(長崎文献社)が出版されたが、盲教育史を研究する岸博実さん(71)=京都府立盲学校非常勤講師=によると、視覚障害者の被爆証言は「聴覚障害者と比べても、まとまった資料はあまり見かけない」という。
 岸さんは、その理由について、点字で残された記録が晴眼者(視覚に障害のない者)に共有されていない可能性に加え、戦後社会が平和運動や空襲体験の掘り起こし運動において、「障害者にちゃんと光を当ててこなかった」とみる。
 その上で「兵隊になれなければ、国の役に立たない、一人前になれないという烙印が押される。戦争と障害者の関係を考えれば、人を戦力ととらえ、命も健康も奪う戦争の本質や、『共に生きる』とは何かを考える手掛かりが見える」と強調する。

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