内戦が奪った脚と笑顔を取り戻す! ルワンダに渡った日本人義肢装具士

2020年8月22日 05時55分

2000年のシドニー・パラリンピックでセザールさん(右)と入場行進するルダシングワ(当時は旧姓・吉田)真美さん=撮影・梅田竜一

 20年前、アフリカ中部の小国ルワンダの選手が初めてパラリンピックに出場した。片足のない選手1人の小さな選手団には、日本人がいた。義肢装具士のルダシングワ真美さん(57)。現地に義肢製作所を設け、内戦などのため手足を失った人たちの暮らしを今も支える。民族対立による苦難を経てきた国で、スポーツの力を思う。(神谷円香)

◆「スポーツは『できる』に気づく手段」

 2000年10月28日、シドニー・パラリンピックの競泳男子50メートル自由形予選。内戦で左脚を失った当時26歳のルワガサナ・セザールさんがルワンダ代表として出場。タイムは42秒39と最も遅かったが、観衆から温かい拍手を受けた。セザールさんの笑顔を見届けた真美さんも、純粋な気持ちで楽しんだ。
 その6年前、ルワンダでは80万~100万人が犠牲になったとされる大虐殺が起きている。当時、障害者スポーツはないに等しく、パラリンピックはほとんど知られていなかった。そんな時、製作所で手掛ける義足の完成を待たず、人生を悲観し自死した男性がいた。悔しかった。
 「スポーツは体を使うから、喪失感ではなく『自分にはこれができる』と気づく手段になる。義足でできることもあっただろうに」

◆シドニー大会で虐殺後の復興を世界に発信

 スポーツの価値に着目した真美さんは、障害者スポーツ普及のための支援を求め、国際パラリンピック委員会(IPC)に手紙を書いた。すると「虐殺後の復興を世界に発信して」と返事が届き、直近のシドニー大会への招待出場枠をもらった。その後、ホテルのプールを借りて開いた国内選考会で選ばれたのがセザールさんだ。
 真美さんは神奈川県茅ケ崎市出身。日本での単調な仕事から逃れようと1989年、ケニアに語学留学し、のちに夫となるルワンダ出身のガテラ・ルダシングワさん(65)と出会った。日本に帰国後も文通を続け、91年、ガテラさんが来日。滞在中、幼いころから右足にまひがあるガテラさんの装具が壊れた。修理してもらった義肢製作所で2人は、ルワンダにはないこの技術の普及を思い立つ。

ルワンダで競技用車いすに乗るガテラさん(右から2人目)と、スポーツを楽しむ仲間たち=ルダシングワ真美さん提供

 94年の大虐殺では多くの人が手足を失った。日本で義肢装具士の修業を終えた真美さんはガテラさんと現地に渡り、97年、首都キガリに製作所を建設。利用者から製作費はもらわず、現地の医療保険や日本からの寄付をよりどころに活動を始めた。

◆本当にやりたいのは皆で笑える運動会

 これまでに提供したのは延べ約1万1000人分。義足や義手のほかにつえが多い。製作所は昨年12月の洪水で流失しかけ、政府が安全のために退去を命じたことで今年2月、完全に壊された。3000万円かかる再建を目指しながら、自宅を兼ねた仮の建物で最低限の活動を続ける。

2017年、製作所で義足を作る作業を見守るルダシングワ真美さん(右)=ルワンダ・キガリで(本人提供)

 真美さんは、日本企業が無償で作ってくれた競技用車いすで仲間と運動を楽しむ夫を見ていると、爽快な気分になる。歩行者天国の道路にいるランナーの横を、車いすでさっと走り抜ける時。その気持ち良さに共感して「自分もやってみたい」と思う人が出てくれたら、と願う。
 真美さんは「パラリンピックに出たのはあくまでもやりたかったことの一つ。私が本当にルワンダでやりたいのは運動会」と話す。「一番良いのは障害物競走。お盆に白い粉を入れて、顔を突っ込めば白くなる。それで楽しくみんなで笑えれば」。障害の有無も関係なく、みんなが平和に楽しめる場。スポーツの力は、そこにあると信じる。

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